2007-01-01から1年間の記事一覧

文字の洪水に流されない

大きな本屋に足を入れると、溢れんばかりの文字と色の渦に最初は眼をしばたたかせ、目当ての本が隙間ない整列の中から見出されると心踊り、他の本の装丁やら帯やらあとがきやら出だしやらポップやらを眺めているうちに次第に飽きとともに嫌気がさして退出す…

お引越し

職場の場所が神保町から霞ヶ関に移って、引越しの慌しさに紛れて、生活も慌しく過ぎ行くのを感じる。神保町でよく通った立飲みのバーにお別れを言いにMさんとのみに行く。ダブルベイというこじんまりとした、しかし小粋なその店は、カウンターに陽気なルー…

意識に関するメモ

意識は実在するか?と問うとき、まずはその語の使用が問われねばならない。まずは、意識。「意識は」と語る時点において、すでにして意識なるものの何であるかが、問う者によって認識されていなければ問いそのものが成立しないであろう。だからこう問う以前…

六本木周遊

今日は友達のゴン太郎のライブにMちゃんと一緒に六本木へ。ライブはいつものように愉しんだけれど、ついでにミッドタウンとヒルズも周遊してきた。あたりまえのようにイルミネーションで溢れかえっていて、買い物目当ての集団や家族連れやらカップルたちで…

東京地裁にて想う

今日は仕事で、ある刑事事件の初公判を傍聴してきた。裁判の傍聴などというのは初めてなのだけれど、小さな法廷でそれは行われた。検察の席にいるのは駆け出しの感が強い若い男で、一方弁護側には気勢の上がらない国選弁護士がついていた。小説や映画なんか…

哲学の魔でない限りは

最近はウィトゲンシュタイン(及びその関連本)ばかりを読んでいる。おれがウィトゲンシュタインの哲学を知ったのは、大学時代に出会った永井均著『ウィトゲンシュタイン入門』によってである。この本の求心力は絶大で、偉大な入門書とは入門をうたいながら…

誰とも会いたくない

今日は会社の課の歓送迎会で、幹事ということもあって、普段使わない神経細胞を動員したので非常にくたびれた。二次会もしっかりやって、愛憎交々の酔狂連中がようやく帰途につき始めたとき、いつものようにモッサンが三次会をやろうと持ちかけてくるが、確…

テクネーなきテクノロジーの蔓延

気がつけば師走である。この日の経つの早さはなんだろう。毎日が金太郎飴のように思えるようであっても、それは思えるだけであって、実際には刻一刻と違う「今」を生きているのだけれど、何やら齢も20代の最後の年となると、それすら瑞々しく感じるための間…

涙が・・

今日は友人の結婚式に行ってきた。恵比寿にある東京ウェスティンで、それはそれは華やかではあった。おれはこれまでも方々の結婚式に出ては、ギターで余興も何度かやっているけれど、基本的にこれらの行事に呼ばれるのはやはり億劫ではある。村上春樹が何か…

罪と罰

硬く乾いた黄土のような我が心奥にすら、眩暈にも似た詠嘆をもたらす美しい物語がある。ドストエフスキーが紡ぎ出す、それらの物語の一つ一つの凄絶に対面していると、他の物語の一切がどうでもよくなってしまう。取るに足らないのだ。ドストエフスキーがあ…

草の根の社会学者

昨日は合同誕生会ということで、いつもの仲のよいメンバーで飲んだ。最近は歳を食ったせいなのか、といっても三十路前だけど、飲み会という席にひどく億劫になってきている。しかし、参加したら参加したで、自分の頭にひめたあれやこれらが理路よく整理され…

免許センターにて

自動車免許の更新に行く。普通免許というのがなくなって、条件つき中型免許になったとか、後部座席もシートベルトの着用義務をうたう法案が可決されたとか、業務上過失の刑期が5年→7年になったとか、色々に変わっていた。そしてしっかり違反者であるおれは…

乳と卵

川上未映子の『乳と卵』を読了。豊胸手術をする人は、一体胸に何を入れようとしているのだろうか、それが未映子の端的な疑問としてこの作品は書かれた、というようなことをトークショーで言っていた気がする。書き手の意図、というものはそれこそ読み手の取…

アルチュール・ランボー

ダラダラとした休日を過ごす。休日はダラダラと過ごすに限る。 正宗白鳥の文章を味わったり、小林秀雄の講演CDを聴いたり、アルチュル・ランボーの伝記映画を観たりして過ごした。映画は面白いのだけれど、最後があの描き方じゃあランボーに対してあんまり…

いざ鎌倉

昨日は友達のマダ子さんと鎌倉へ行ってきた。 東海道線は大船で降りて、そこから北鎌倉まで歩き、そのまま鎌倉まで足を伸ばした。大船から北鎌倉までは歩いて25分ほどであろうか、雑多な建物が建ちならぶ田舎くさい景観の中、幅狭い歩道をぐいぐい歩いて行…

日暮れて道遠し

今日は職場のM嬢とすこぶるワインを空けて呑んだだけあって、ずいぶん言いたいことを言ったし、M嬢も余計なことまで含めてずいぶん色々なことを告白していたと思う。そして、とても今日の飲み会は男同士の飲み会にありがちな下らないプライドの披瀝や軋轢…

埴谷雄高展にて

『死霊』を3章まで読み終えたところで、埴谷雄高『死霊』展に行ってきた。 みなとみらい線に乗って、元町・中華街駅に降りる。何だか半分日本の街にいるようで、半分どこかシンガポールとかその辺にいるような趣が元町には漂っていた。 その日の夜には銀座…

日々の泡

毎夜飲み会が続く。繰り返される組織の方向性についての展望と愚痴、二枚舌とポーカーフェイス。そんなことは、宇宙論的にいってどうでもいいことばかりじゃないか。そうやって全て片付けたくなる。出世というものに、興味がない。 どだい、何が何だか分から…

人は歌をうたいます

今日は友達のゴンがやっているバンドloose lifeのライブに行った。六本木に新しく出来たショッピングモール、東京ミッドタウンとかいう陳腐な名前のモールを潜り抜けて、女の子と待ち合わせてライブハウスへ。ゴンの出演時間を1時間間違えたので、そのぶん他…

国会雑記

今日は仕事で国会へ行く。連日国会がらみの待機やらで辟易しているところだけれど、思い返せば国会なんて行くのは修学旅行ぶり。衆議員会館では町村官房長官やら外添厚労大臣などと遭遇。秘書などに囲まれて足早に過ぎ去る外添さんの目つきは一見して尋常で…

剥落の味

誕生日が過ぎる。ずいぶん生きたなあ、と思う。大きくなったなあ、と。まるで庄野潤三の小説の出だしみたいだけれど。 林芙美子の談話を聴く。とても芯の通った、しみじみとした語り口。 例えば終戦直後の日本人について。「(洗濯のように、日本人が)大ゆ…

ぷふぃ!!

あたりまえのことだが、存在とか死について考えることは、哲学を勉強することとは次元の違うことだ。例えば存在について考えるとき、ソクラテスからデカルトを経てハイデガー、日本で言ったら永井均に至るまでの哲学史を勉強する必要があるかと言われれば、…

生活感情の裏打がない

小林秀雄の対談を読んでいるだけで、今日もまた様々なことを考えさせられる。そこには嘘や衒いがないからだ。小林の中学からの友人である文人・河上徹太郎などが素直であると同時に衒いがたっぷりという感があるのに対して、小林にはそれがない。少年がその…

ぼくが電話をかけている場所

10月に入ってもまだ残暑の感がある。昼起きて、愛器MatonEBG808TEの弦を張り替える。こいつはアコースティックギターを弾く者の多くにとって偉大なる存在である、トミー・エマニュエルの使用しているものと同型のギターモデルで、箱鳴りやレ…

美は観念にあらざるなり

西荻窪でAさんと食す。Aさんは旦那のある女子で、彩色美しい絵本を描く人で、絵本出版社につとめている。絵本出版社に入って、業界のいい面、いやな面、さまざま味わっているらしいけれど、好きなことにたずさわって仕事できることは素晴らしことですな。 …

諺に宿る普遍

二人の友人から連絡が来て、最近写真を始めました、とかデッサンの勉強を始めようと思ってます、などと言われると、こちらまで何かを新しく始めたくなる心持ちになって、実にいいなあと思った。 写真を始めた女の友人は今日も三軒茶屋から下高井戸までの世田…

猫のゆりかごに揺られる世界

ワシントンではヴォネガットの『猫のゆりかご』を読み終え、保坂和志の『季節の記憶』を読み、などしていたのだけれど、保坂和志のものは彼の佳作『プレーンソング』同様に、5分の1くらいのところで投げ出して飛ばし読んだ。保坂和志の書くものを味わえる…

ワシントン雑記

ふだん時差ぼけた生活をしているから、3時間ほどのうつらうつらの睡眠でワシントンに着いてもなんら時差を覚えないのは得なのか。ワシントンは道路がよく整備されている。ダレス空港からの車道は5車線で、道沿いに桜並木が林立していて、春にはきっと花を…

そして、ワシントン

明日はワシントンに立つ。短い旅路。 旅はいい。日本が相対化され、自分が相対化される。 何かの役割を背負って行くのは気が重いけれど、旅というのは普段考えないことを考える、いい機会なのだ。 いつかニューヨークを一人で旅したことがあった。これも短い…

Babel

何事もそうなのだが、共同作業というものにおいては、作業の関係者間で合意の形成を誤ると、どんなに忙しく立ち回っていても、結局は元の木阿弥に帰すということが往々にしてある。会議というものはすべからく合意形成のためにあるべきものなのだけれど、そ…