お引越し

職場の場所が神保町から霞ヶ関に移って、引越しの慌しさに紛れて、生活も慌しく過ぎ行くのを感じる。神保町でよく通った立飲みのバーにお別れを言いにMさんとのみに行く。ダブルベイというこじんまりとした、しかし小粋なその店は、カウンターに陽気なルーマニア人のニックがいて、その隅でオーナーが客と一緒に酒を飲んでいる。オーストラリア産のうまいワインを安値でたらふく飲ませてくれる。1週間に3回も通ったこともあるくらいなので、おれとMさんはだいぶの常連だった。オーナーの一人と話をして、前職は衛星通信のアダルト番組を立ち上げて、がっぽり儲けた武勇伝を聞いた。オーナーは温厚にして、物腰やわらかで、よくもまあそんなビジネスに手を出せたもんだというくらいだったのだが、「よのなか」はそういう人が回してるのかもしれないな。
一緒だったMさんは、負けん気の強い女性だけれど、文学少女でもあり、遠藤周作が好き。よく文学の話やらで盛り上がる。別に容姿が好みでも何でもないのだけれど、話が合うというか、ノリが合う女性というのは、容姿の如何をある程度帳消しにするものだ。一昨日は一昨日で呑み助たちの忘年会だったのだが、文学のブの字も会話の俎上に挙ることはなく、それが悪いわけでもないが、退屈だった。ただ飲んで酔っ払うだけの飲み会は一体何が楽しいんだろうか。昔はそれが楽しかった。大学1年生の新歓コンパのとき。飲んだこともないビールを、不味いのを我慢して何杯も呷っていたら、横から「すごい飲めるねえ」と言われ、わけもなく高揚した。そのままコンパのメンツの何人かでおれんちに泊まって寝させた。茂木健一郎に言わせれば、脳は予定調和を嫌う。脳は、できないと思われるようなことをやってのけたときに喜びを感じて成長するようになっているのだとか。まあ、別に脳科学者に言われるまでもない一般論だけど、オーサライズされてるわな。今は、ビールが不味くなく飲める。バカをすると楽しいよりも、疲れることがわかっている。毒気紛々たる居酒屋の篭城で退屈に歯を噛み締めるのも人生、などとうそぶくのも大概にしたい。かといって小谷野敦『退屈論』でも読むなどという退屈な選択は最も忌避されるところだ。年賀状を買い、絵筆を走らせようかと思う。