六本木周遊

今日は友達のゴン太郎のライブにMちゃんと一緒に六本木へ。ライブはいつものように愉しんだけれど、ついでにミッドタウンとヒルズも周遊してきた。あたりまえのようにイルミネーションで溢れかえっていて、買い物目当ての集団や家族連れやらカップルたちでにぎわっていた。もちろんおれとMちゃんも傍目は完全にカップルみたいなものだったし、交際意志を告げればカップルにすぐにでもなってしまうのだった。交際意志を告げればというのが重要である。自慢でもなんでもないが、というより自慢だとすればよほどふざけた自慢だが、おれにはそんな状態にある女友達が4、5人いる。それはおれの八方美人のなせる賜物なのだけれど、その全てに対してインセンティブというかモチベーションというかが働かないものだから、いたしかたないとは思うのだけれど、それはそれでほんとに困ったことだと思う。Mちゃんにしても小さいとはいえ芸能事務所に入ってるくらいだからそれなりの美人であるのだけれど、いやむしろ芸能という軽薄が逆におれが遠ざかる理由になっているのかもしれないし、デューク更家に逆ナンされてヒルズの住居棟にある部屋に上がって襲われそうになったりした話やらを聞かされて、芸能人達の軽薄をまた強くするのだった。デュークは後日、Mちゃんの友達と懇意になったとか。遠国の妻子が泣いてるぞ。
真善美の如何を求めるべく、世に伝わる偉大な書物たちを紐解くのに近時はかまけすぎているきらいがあって、現実生活というものをあんまり大事にしてこなかった。しかし、正宗白鳥も言ってるけれど、実際のところ読書なんてものはみんな読んでしまえば内容なんて忘れてしまうものである。そして、正宗さんは回顧して、その読書に割いてきた膨大な時間を仮に実生活の充実に割いてきたならば、はたして自身の人生も変わっていたのではないかと思うときがある、というようなことをどこかで語っていた。そしておれはそれを読んで、さもありなんと思った。
六本木の街を歩いているだけで、なんだか忘れかけていたような興奮が蘇ってくるのだもの。イルミネーションが散らばり、外国人が多くてニューヨークのようなテイストであって、歩く女たちの外装は華やかであったり、端正であったり。寒気で引き締まった路地に建ちならぶブティックやらバーやらクラブやら、その隙間を埋める欲望と喧騒がうごめく影、影。デコレートされたケーキのようにショッピングモールやらシネコンやら美術館やらが区分けされて林立し、そこに地下鉄や幹線道路が縦横無尽のナイフを入れている、あの感じ。小奇麗に偽装、というか正装されたあの街のあの感じ。なんだか面白いではないか。そのうごめきというか、律動といったものが。脇に綺麗な女がいたからかもしれないけどさ。
書を捨てて、街へ出よう、捨てるほどに読んだならば。