テクネーなきテクノロジーの蔓延

気がつけば師走である。この日の経つの早さはなんだろう。毎日が金太郎飴のように思えるようであっても、それは思えるだけであって、実際には刻一刻と違う「今」を生きているのだけれど、何やら齢も20代の最後の年となると、それすら瑞々しく感じるための間合いというか、想念すら退屈に流されていく感がある。

OECDがまたよくわからない指標を発表して、世界57カ国の15歳の学力を調査していて、それを見ると日本は科学への感心が参加国中最下位であるとか。しかし、この退屈を知らない日本の現代にあってひどく退屈しているおれが言うのもなんだが、好奇心というものは本来的に自発のものである。無理強いして開拓できるものではない。
そして、必要は発明の母というわけで、必要に迫られてもいない科学をこれ以上発展させる先に何があるのかという冷めた感覚が根底にあるのではないか。ケータイに盛り込む必要のないであろうものまで次々と盛り込むことの阿呆らしさ。ITにしても、ふやけた言葉の蔓延がもたらす虚無といったら。などと書いていると、このブログなどというものも、とても自己否定的な性格になってくるわけで。
二酸化炭素を中国がわんさか排出しているのも、自然科学のマンモス的な発達に因るものであるし、人が天命を覚らずにダラダラと生き延ばされるのも科学の恩恵というわけだ。
そんなところで日本人の若者の科学への無関心を大人が嘆いてみたところで、けだし滑稽であろう。こういう話が出るとまた「ゆとり教育」が叩かれる。
ゆとり教育の弊害を叫ぶ一方で、それによる学力低下が何をもたらすというのだろうか。抜け目なく塾に通わせて、我が子だけはという親心が学力格差をもたらすっていうのも、わからなくはないが、世の中は格差に満ちているわけであって、人生の綾であるとか悲喜交々の一切がそれらの克服やら戦いやら超越にあるともいえなくもないではないか。