諺に宿る普遍

二人の友人から連絡が来て、最近写真を始めました、とかデッサンの勉強を始めようと思ってます、などと言われると、こちらまで何かを新しく始めたくなる心持ちになって、実にいいなあと思った。
写真を始めた女の友人は今日も三軒茶屋から下高井戸までの世田谷線沿いをみんなでカメラに収めてきたとのこと。良いことです。今日はいい日和、おれも町田に出向いて、よく通う古書店埴谷雄高『謎解き大審問官』、中原中也『在りし日の歌』、小林秀雄の対話集を購入。そんでもって帰ってきてオンラインで埴谷雄高やら安倍公房やらの書物をまとめて31冊競り落として購入。そして今日は出張前に競り落としていた写真集『ビヨンド』が届く。状態並み。探査機が撮影した太陽系惑星の大型写真集なのだけれど、惑星はどれもこれも煌煌として艶めいた肉厚な色みを放っていて、そんな宇宙と惑星の神秘不可思議な世界を無心にパラパラめくっていると、こちらまで神妙不可解な気分になってきて、いかんいかん。単に処方されている抗生物質のせいで、頭がヌボオっとしているだけなのかもしれない。
今日またいつものように小林秀雄の講演を聴いていたら、正宗白鳥の話になって、正宗さんは小林秀雄の唯一批評家として尊敬に値する男として名が上げられているのだけれど、その正宗さんがインテリの言を徹底的に嫌う一方で、よく諺(ことわざ)を引用するという話が出てきて、その理由は諺には先人たちが長い生活の中で培われて醸成されたものだからだというのがあるのを言っていて、なるほどなあと得心した。「一寸先は闇」と言うではないか、とか「知らぬは亭主ばかりなり」だとか。知らぬは亭主ばかりなりは諺なのかよくわからないのだけれど。これはしかし本当のことで、一時代のインテリの言葉は程度が知れているが、諺の真理は普遍だよなあ、と思わされる。
今浮かんだだけで、雨降って地固まる、早起きは三文の徳、継続は力なり、元の木阿弥、二兎を追えば一兎も得ず、石の上にも三年、泣きっ面に蜂、猿も木から落ちる、犬も歩けば棒にあたる・・・。おれは諺、いろいろと覚えたものだけれど、昔『のんき君』というしょうもない傑作漫画があって、小学生向け月刊誌の付録か何かに主人公のんき君が諺をギャグを交えて語る付録があって、それでずいぶん諺を覚えたことを今思い出した。
光陰矢の如し、少年老い易く学なり難し。みな口を開けば時の速さを嘆じるけれど、そう思うからこそ自身を変革するような新しい試みというのは、大切だよね。