意識に関するメモ

意識は実在するか?と問うとき、まずはその語の使用が問われねばならない。まずは、意識。「意識は」と語る時点において、すでにして意識なるものの何であるかが、問う者によって認識されていなければ問いそのものが成立しないであろう。だからこう問う以前に我々は認識としてそれが存在していることを是認しなければならない。そして、ここで問おうとしている意識というのは語られる時点にして、一般的な意識のことだ。しかし一般的な意識などと言うものは見たこともない。物質たる脳にいくらメスを入れても意識などは出てきやしない。しかし、たしかに意識と一般化されてしまう「それ」はおれの中にあって、「それ」が言語ゲームによって意識になってしまうのだ。
次に実在。実在ということを考えるとき、デカルトにならって、おれも「このここで疑ってるこの当のものは確かにここに実在している、それだけは間違いない!」と叫びたくなる。でもこのように言表した瞬間に、おれの言いたいことは言いたいことでなくなる。永井均さんの言を借りれば、私的言語は成立するのだけれど、それも言語ゲームによってどこまでも読みかえられていくのだ。しかし実在という言葉を語るとき、おれの中にイメージされるのは、ウィトゲンシュタインが言ってるように、鋤を使って地底まで掘り進んだ掘削者がガチンとした地盤に触れて跳ね返される境地というか、もう何も言いたくなくなる境地というものである。
夢を見て、夢から覚めたとき、ああ夢だった、と言う。つまり、あれらは実在していなかったと。このように語るとき、実在は、この「現実世界」の表象を指している。机を叩きながら、ここに机がある、というふうに。しかし、夢が実在でないというのは、それが寝ている間に意識なり無意識の中で見られていると考えられているからだ。そしてそれは突然死でもしない限り必ず醒める。しかし、現実の世界だって、意識・無意識の中で現に生きられているではないか?この世界が他の世界に醒めることはありえないと、どうして言えるのであろうか。
問いはつきない。死は実在するか。時間は実在するか。おれはそれらの全てにこう言いたくなる。それらは実在すると思うことによって実在する、と。そして実在を検証するためには、我々の持つ鋤では役に立たない境地がどこまでもある、と。これは恐ろしいことでもあるし、愉快なことでもある。どちらになるかはその人の人生遍歴なり心象風景による。