人は歌をうたいます

今日は友達のゴンがやっているバンドloose lifeのライブに行った。六本木に新しく出来たショッピングモール、東京ミッドタウンとかいう陳腐な名前のモールを潜り抜けて、女の子と待ち合わせてライブハウスへ。ゴンの出演時間を1時間間違えたので、そのぶん他のバンドの演奏も聴いていたのだけれど、やはり生のロックはいいなあと思った。
生演奏に限るのはジャズではなく、ロックである。ジャズはレコード芸術として楽しめるが、ロック音楽は体で感じなければわからないし、家でソファーにどっかり腰掛けてコーヒーを飲みながら聴くものではないのだ。若さが汗を散らばして体躯を激しく前後に揺らし、震える筐体からせり出して来る歪んだ音の間隙を縫うように詩が載せられてくる。およそ詩の内容など初見の者には全くわかりようもないのだけれど、彼らの不安な呼吸が醸成する名状しがたい気勢のようなものに体が自然に呼応して、寸分の隙もない一個の存在の律動めいたものが肉薄してくるさまは、やはりロックという音楽の持つ価値なのだろうと思わされる。
ゴンはリリーフランキーのような風貌になっていて、ロックの中にヴァイオリンの美しい音色を取り入れたりして斬新で、数多くいたバンドの中では最も詩を大事にしているように思えた。要するに詩をしっかりと歌い上げる。音の歪みや放流の中に歌詞を埋没させることが少ない。ゆえに他のバンドよりも一段上に洗練された印象をもたらすのだけれど、ロックという、存在の律動で聴き手の魂にぶつかる形式の音楽上では洗練されすぎた感もなくはない。
友達付き合いということもあり、これまで数多のインディーズバンドを目の当たりにしてきているけれど、今日は偏頭痛も手伝ってか何だか浮遊した感覚に囚われた。
『死霊』の一文句を借りるならば、「自身を一個の無限小の粒子に感じて、一つの空間から他の空間に駆り立てられる」ような感覚だ。溢れ出す音楽の渦にひたりながら死霊の断片的な章句を想起していた。

「酔える身を広大な空間に彷徨わすものには、やがて宇宙の意識が意識されよう。」(埴谷雄高『死霊』第2章)

拡がる宇宙の静寂の中に投げ出されている我々という奇怪な存在。ロックは悲しみを歌い、喜びを歌い、孤独を歌い、連帯を歌う。つまり宇宙に放り出された、我々の人生を歌う。
「儚いから人は歌うのよ」と未映子は言う。そう、儚いから人は生きるのだ、人は歌うのだ。
「なぜ生きるのか」という有り体で直截的な質問にはそう答えてやりたいと思う、そんな一日。