ぷふぃ!!

あたりまえのことだが、存在とか死について考えることは、哲学を勉強することとは次元の違うことだ。例えば存在について考えるとき、ソクラテスからデカルトを経てハイデガー、日本で言ったら永井均に至るまでの哲学史を勉強する必要があるかと言われれば、まったくない。それはあくまで補助輪なのであって、あったら便利であろうが、ないならないでよいものである。
1万回目のジャンケンに勝つために、それまでの9999回目の勝敗結果や確率を計算することが、1万回目の勝利に何の関係もないように、哲学の勉強は、考えることと関係はない。
存在、これについて考えると、考えるほど、笑いたくなる。ヌワッハッハッハッハとね。
埴谷雄高ならば「あっは!」と「ぷふぃ!」というところだ。
大体にして朝目覚める、世界がまた始まる、世界が同じようにしてなんら変わりなくまた始まるというのがまた不思議だ。関係性も継続し、いいことも悪いことも記憶として残されたまま。
夢は醒めれども、この世界からは醒めないのはなぜであるか。そして夢の中で起こったことはまやかしとして忘れ去られ、世界のあれやこれやは何でもかでも現実として受け入れられる。
まあ、私があるという、このことはいったい何なのだと叫びたくもなるし、そもそも地球と名指されるこの惑星の誕生と存在がまさに奇跡的なのであって、例えば月の引力ひとつ欠けていたって人間が存在することはなかったかしれないのであって、さらにもっといえばこの存在の入れ物たる宇宙はどうなのよと、まあそんなことを考えると、ここでこうやって在ること自体が何だか宇宙的な冗談にも思えてくるのであって、川上未映子の言葉を借りれば「替えの効かぬ舞台に立つすべての友達に直接お祝いの言葉を届けるのです。」(『純粋を設計する人々』より)と言って一緒に存在者全般をお祝いしたくなる。
埴谷雄高の『死霊』展が開催されている。ということで、駆け足でフルマラソン並みの『死霊』を読破して展覧会に行かねばならぬ。飛翔せねばならぬ。ぷふぃ!