猫のゆりかごに揺られる世界

ワシントンではヴォネガットの『猫のゆりかご』を読み終え、保坂和志の『季節の記憶』を読み、などしていたのだけれど、保坂和志のものは彼の佳作『プレーンソング』同様に、5分の1くらいのところで投げ出して飛ばし読んだ。保坂和志の書くものを味わえるようになるには、本人もそのあとがきで語ってるように、相当の本を読み漁って、読書そのものにうんざりするようになってからなのだろう。多く、人は小説の中に心を揺さぶらせる何かを求めるのだと思うけれど、保坂和志の小説にいたっては、主人公と周辺人物をとりまく端的な日常がつぶさに描かれてのらりくらりと話が進み、結末までその調子は保たれていて、揺さぶりはほとんどと言っていいほど与えられない。
あえていうならば、彼の作品は年輪を重ねるような小説とでもいえようか。人が一日一日を端的に、非合理に生きているうちに、気がつくと年輪が重ねられ、気がつくと成熟を発見し、堕落を発見し、老いを発見し、死を発見する、というようにゆるりとした歩みが気がつくと重大な気づきを人にもたらす。保坂の小説もゆるりゆるりと小説世界の日常に付き合っていくうちに、自ずと何かの気づきを人にもたらす、のではないだろうか。
ヴォネガットの『猫のゆりかご』については、これも中々にとらえどころのない小説なのだけれど、やはりヴォネガットらしいというか、世界の終末がボコノン教という珍妙不可解な宗教をダシにしつつ描かれていて、人間存在というものが面白おかしく、ヴォネガットらしい泣き笑いの調子で哀しく描かれている。21世紀に入っても、人間のやってるバカ騒ぎは泣き笑いに違いない。ヴォネガットも墓場で笑ってる。
飛行機がアメリカの中心部めがけて突っ込み、報復といっては一般市民を大量に巻き添えにした数倍返しを行い、勢い余ってイラクの体制もひっくり返す(ここでも大量の無辜の一般市民の殺戮がオマケのようについている)。
阿川尚之・元米国大使館公使は対イラク戦争への日本の同調・自衛隊の派遣が米国を励まし、おかげで世界に対する発言力を結果強めたと言っていたけれど、その言い草はあまりに卑屈だ。現場の感覚には違いないのだろうけれど。大量破壊兵器を持ってなかったイラクに対して、大量破壊兵器は確かにあるとしてアメリカを支持しといて、ないとわかっても反省もせずに常任理事国入りだけを求めて邁進しているような国家は早晩国柄を失う。
時差ボケによる覚醒で、ジョー・パス『ヴァーチュオーゾ』の音色が気持ちのいい夜に思う。