Babel

何事もそうなのだが、共同作業というものにおいては、作業の関係者間で合意の形成を誤ると、どんなに忙しく立ち回っていても、結局は元の木阿弥に帰すということが往々にしてある。会議というものはすべからく合意形成のためにあるべきものなのだけれど、そもそもの前提が共有されていないと、その会議はおそらく、というより完全に不毛であろう。安野モヨコ働きマン的にいえば、会議の7割は不要、であったりする。
日々を終電まで消耗しきって突き詰めて作業をしているのだけれど、これも不要。そしてなによりも上の判断で二転三転と方向性が翻るのは、実に空虚を味わさせられるし、モチベーションの低下もはなはだしい。
と、つらつら書くとお前のグチがはなはだしいと思われる向きもあろうが、これは掛け値なしの真実である。
人間の脳機能は朝が一番活性化しているのであるからして。
一方で、日々を暇だ暇だと過ごしている人々がいる。そして、此岸の人生も、彼岸の人生も、同じ人生、それぞれのことを思いながら、それぞれの世界において、すれ違うこともなしに、それぞれ好き勝手に生き、好き勝手に死ぬ。ああ、それはなぜかとてつもなく哀しいことではあるけれど、世のことわりなのだなあ。だから世界には詩があるわけで、詩人がいるわけで、涙がある、わけですね。
日々について、忙しいなかでこそ、切実に色々と考えさせられる、このごろ。