震災に思う

東日本を立て続けに襲った震災から2週間が過ぎた。
石巻市にある生家は奇跡的に倒壊もなく、床上浸水もなく、家族親戚そろって無事だったものの、近隣の方々で安否が未だに分からなかったり、波にのまれて亡くなられた方がたくさんいる。
石巻市の人口は16万人そこそこである。そのうちの1割が亡くなったり安否不明になったりしている。2週間が経過してもまだ全容を把握できていない以上、あるいはその数字はもっと増えるかもしれない。沿岸部は壊滅的だ。
我々に今出来ることは何か。自衛隊や災害ボランティアや現地の人たちが復興作業に取りかかるのを指をくわえて傍観することだけだろうか。街灯でなけなしの募金をすることだろうか。あるいは天に祈ることだろうか。現地に物資を届けることだろうか。
川崎市内の最寄りの駅前の喫茶店。そこには日常的ないつもと変わらぬ与太話と笑い声が飛び交っている。
200km先では今でも困窮した避難住民がいることへの想像力の圧倒的欠如。この圧倒的欠如がしかし、人間の精神衛生に一役かっているのだとすれば、それを非難する筋合いもないのかもしれない。女川原発の体育館を避難所にしている方々もいるわけであるから。そこには恐怖心を埒外に置く精神作用がある。
我々にできることは、この想像力の圧倒的欠如を承知の上で、ささやかでも役に立つことを行っていくことではないだろうか。そして、この出来事を記憶に焼き付け、被災された方々の生活環境を一刻も早く整えるための有効な方策を立てていくこと、失敗を繰り返さないための予防線を築き上げていくことに必要な財政資金を投入する必要があるし、そのためには数多ある利権がらみの無駄な政策に使われている資金を削るなり返還させるなりして資金を被災地に回すべきだ。
いま必要なことは政府の批判や理想論を振りかざすことでなく、現実の温かいパンとスープ、屋根のある家とベッドなのだから。