ぼくが電話をかけている場所

10月に入ってもまだ残暑の感がある。昼起きて、愛器MatonEBG808TEの弦を張り替える。こいつはアコースティックギターを弾く者の多くにとって偉大なる存在である、トミー・エマニュエルの使用しているものと同型のギターモデルで、箱鳴りやレスポンスなどでは、もう1本の愛器ローデンや今日一緒にセッションしたゴチアイ君のフォルヒに負けてしまうのだけれど、全体的なバランスが良くて、というよりもトミーが同じギターで弾いているというその1点だけの情熱で買い求めた、というか競り落としたギターなのであって、このギターにはつ付き合いこそ短いものの愛憎がうずまいている。
ゴチアイ君にも指摘されたが、おれはさほどギターの筋がいいと思っていない。むしろ悪いのだろう。フィーリングでギターに触ってるので、なかなか型が身につかない。コードもスケールも、好きなものしか覚えないし、練習しない。ショートカットが好きだから、練習もショートカットして早く上達したいと思い込む節がある。それでもギターは好きで10年近く続けていて、暇ができたらいつも触っている。好きこそものの上手なれ。不器用だろうが好きな道を歩んでいればいいのであって、人間には結局それが一番幸福な選択肢ではないだろうか。ううむ一般論。

実家のバアちゃんと電話口で話す。最近なんだか毎日のように電話で話している気がする。電話口のおばあちゃんは、もうおれの名前も思い出し思い出しの感じなのだけれど、おれにとってはかけがえのない絶対的な、唯一無二的な存在なんである。新刊の文庫『介護入門』でモブノリオが、

俺はいつも、「オバアチャン、オバアチャン、オバアチャン」で、この家にいて(介護している)祖母に向き合う時にだけ、辛うじてこの世に存在しているみたいだ。

なんて言ってるのを読んで、なんだかひどく共感する。
小林秀雄も、困ったときには「おばあちゃん助けてくれ」と思いますよ、おばあちゃんのたましいがいつも近くにいると信じてますよ、いいじゃねえか、などと言っているのをいま思い出した。
歳をいくら重ねようが、愛のかたちは普遍なんだよなあ。