アラスカから帰って来て1ヶ月が経つ。
官庁街で会計的雪かき仕事に明け暮れていると、眼に見えない塵が肩に積もっているのに気がつかない。
塵はやがて体内から精神へと侵食し、やがて人をだめにしてしまう。

アラスカへはジョン・クラカワーのベストセラー『荒野へ』を読んで行った。
主人公クリス・マッカンドレスは或る程度の富裕な家庭に育ち、勉学もスポーツも要領よくこなし、高校も大学も優等な成績をおさめて卒業した。しかし卒業するや愛車のダットサンに乗ってアメリカ放浪の出る。旅の中途からはダットサンを乗り捨てて一人アラスカの荒野へ。3年にわたって家族と連絡は一切取らず、ジャックロンドンやソローを読みあさり、土地が与えてくれるものだけを口にして生きて行く。言葉でいうほどに簡単なことではない。簡単ではないゆえに、彼は不運に当たり、アラスカの荒野に入って4ヶ月後に飢えにより命を落とす。
1ヶ月前、アラスカのデナリ国立公園に行き、シャトルバスでバックカントリーまで行く途中、バスガイドがどこまでもひろがる平原の向こう側を指差して、マッカンドレスがあの山の向こう側で死んだということを淡々と話していた。

『荒野へ』には、マッカンドレス同様、荒野に魅せられて命を落とした男たちの夢見がちな、無謀な、しかし魅力的なエピソードがちりばめられている。
たとえば、1934年に、ユタ州南部のデイヴィスクリークで謎の失踪をとげた20歳のエヴェレット・ルース。彼が兄へ出した手紙はまるでマッカンドレスと同じものだ。

――僕がいつ都会にもどるかということですが、すぐではないと思います。
原野に厭きることがないからです。むしろ原野の美しさといまのこの気ままな生活を楽しんでいます。
この暮らしには、つねに張りがあります。ぼくが好きなのは、路面電車よりも鞍ですし、屋根よりも星のちりばめられた空、舗装された大通りよりも未知のものに通じている暗く困難な小道、都市から生まれる不満よりも荒野の深い平穏なのです。ここに滞在していることで、あなたはぼくを非難するでしょうか?
ここでは、自分が周囲の世界に属し、その一員だと感じられるのです。たしかに、知的な人々との付き合いはありませんが、彼らのなかには、ぼくにとって重要と思えることを話し合える人々がほとんどいませんから、平気でいられるようになりました。美に囲まれているだけで十分なのです…。――

彼らは、人間社会の雪かきの馬鹿ばかしさに若いうちから直観している。
社会や制度や人間関係がもたらす疲弊に対してつくづくうんざりしているし、そこに何ら一切の価値を認めていない。
彼らにとって重要なのは川のせせらぎであり、森の息吹であり、大地の胎動なのだ。
彼らの友だちは野に咲く花々であり、風に舞う鳥であり、川に泳ぐ魚たちなのだ。
そこには若年特有の青い美学がある。作り上げられたものに対する一方的な断罪と自己肯定がある。
社会における雪かき仕事の悲哀や機微を読み取ろうとする意思は微塵もない。
それゆえに彼らは短絡的ともいえるのだが、彼らがただの夢想主義者と違うのは、荒野に現に生き、そして死んでいったことだ。そこにはロマンチシズムを通り越した説得力がある。

その説得力は、禅語でいうところの本来無一物にあるのかもしれない。荒野を目指すことが自ずから精神の原野、無我の境地を目指すことに通じている。それを証明するかのように彼らは一様に禁欲的であり、敬虔な修道僧のような生き様を残している。