誰とも会いたくない

今日は会社の課の歓送迎会で、幹事ということもあって、普段使わない神経細胞を動員したので非常にくたびれた。二次会もしっかりやって、愛憎交々の酔狂連中がようやく帰途につき始めたとき、いつものようにモッサンが三次会をやろうと持ちかけてくるが、確実に朝までコースなので断る。終電逃してまで飲みたくなんぞないのである。この節目なき酒の付き合いというものが最近はいやに七面倒臭くなっていて、それはもうその後の展開に予想がつくからなのかもしれない。際限なく立ち現れるデジャブ。始発の電車の倦怠あるいはモッサンの家の寝袋のぬくもり。この煩わしい一事を逃れるという意味においても下戸であることは一つの利得なのかもしれないけれど、酒を知らぬ人生などやはり詰まらぬものではあるなと思う。正宗さんには悪いけど。
この2週間は仕事含めてぶっ通しで職場的人間関係の空間に身を置いてきたので、なんだかもう、しばらく誰とも会いたくない気分だ。誰とも会いたくない――ここには孤独であるとか、苛立ちであるとかは一切ない。むしろ清々しく晴れやかな気分があるのは、やはりおれにとっての最も幸せである思う時間が、ウィトゲンシュタインが言うところの「認識の生」を生きているという実感を持っている時間だからなのかもしれない。

「人間は自分の意志をはたらかすことができないのに、他方この世界のあらゆる苦難をこうむらなければならない、と想定した場合、何が彼を幸福にしうるのだろうか。この世界の苦難を避けることができないというのに、そもそもいかにして人間は幸福でありうるのか。
まさに、認識の生を生きることによって」(ウィトゲンシュタイン全集1「草稿1914-1916」より)

未だ誰にも知られていないこの世界について、その世界を超越するものについて、ウィトゲンシュタインという名の梯子を使って、どこまで登っていけるか、そして登ったあかつきにはそれをはずして、おれは、おれ自らの哲学を始めるのだ。そして明日も形而下にまみれた飲み会であるし、よく考えると形而上にまみれた飲み会なんてそれはそれで恐ろしいのでよしとする。