哲学の魔でない限りは

最近はウィトゲンシュタイン(及びその関連本)ばかりを読んでいる。おれがウィトゲンシュタインの哲学を知ったのは、大学時代に出会った永井均著『ウィトゲンシュタイン入門』によってである。この本の求心力は絶大で、偉大な入門書とは入門をうたいながらも固有の探求と問題提起を行っているような本なのだが、まさにこの本はそうであり、大学時代のおちゃらけた脳髄に瞠目の一撃を喰らわせてくれたのだった。
ウィトゲンシュタインという人の心の在り様、魂の実質を考えてみるときに、おれが思うのは彼の罪に対する意識というものである。極限まで突き詰めた仔細な考察を行う一方で、自らが大昔についた嘘一つ(小学校教師時代に生徒を殴って気絶させたことを校長にやっていないと嘘をついた)に真剣に懊悩し、ある日決然としかし唐突にそれを隠してきた罪として友人たちに告白する姿に、哲学者というよりも一人の人間としての魅力を覚えるのである。己の信ずるが道にどこまでも敬虔にして実直であり、そうであればこそ第一次大戦では兵士として最前線に自ら志願し、第二次大戦では研究職の身であったにも関わらず病院勤務を志願するのである。
精神と行動の間に隙間がない。彼の精神、そして世界がどのような在り様をしていたのか、その実質は知るべくもないのだけれど、彼の哲学の裏には常に論理を超えた「語りえぬもの」として、彼の信ずるが道があったに違いないのである。

昨日は大学時代のサークル仲間20数名で集まって、ウダウダと飲んだ。結婚して性を変えている者たちの顔ぶれを見ると、やはり大学時代も堅実なやつらなのであって、堅実とは無縁の学生生活を送っていた連中(おれを含め)はやはり思い思い好き勝手に生きているので、当然結婚などしておらず、一人身の安楽にひたっている。何歳までに結婚する、などという著名人やら友人やらの発言を聞くと莫迦げた気分になるけれど、それはそれで真っ当な感覚なのかもしれない。人生に節目をもたずに、自意識に詰め腹を切らずに生きていくのは、むしろ不自由なことであるし、退屈なことであるように思える。
ウィトゲンシュタインは生涯を一人身で送ったのだが、彼のような哲学の魔でもない限りは、早々に腰をどこかに落ち着けるのがよいのだろうし、それは平凡人にとっては認識の生を生きること以上に幸福をもたらしてくれるのではないだろうか、とつらつらと思う。