東京地裁にて想う

今日は仕事で、ある刑事事件の初公判を傍聴してきた。裁判の傍聴などというのは初めてなのだけれど、小さな法廷でそれは行われた。検察の席にいるのは駆け出しの感が強い若い男で、一方弁護側には気勢の上がらない国選弁護士がついていた。小説や映画なんかとは違って、裁判事実は現実そのものであるから、実に生々しい。短い時間の淡々としたやり取りの中でも、思わず感情を揺さぶられたのは、情状の場面だった。証言台にたったのは被告人の友人だった。友人と言っても幼なじみなどではないのだけれど、自ら犯した罪によって職を失い、家族を失った被告人のことを自宅で世話し、今後も付き合いを継続して忠告なり指導していくと証言台で語った。
もはや思考停止状態で自身に絶望し、死を思っていた男でさえ、このような友人が一人でもいて、忙しい合間を縫って法廷に駆けつけて証言台で被告人のために証言してくれることを思うとき、何やら静かな救いの光芒が射しこまれる気がして、おれの側でも何かが浄化された気がした。
そんなヒューマンな気分の一方で、どうしても反省的に立ち上がってくるのは、この裁きの空間そのものの異質さだ。むろん、社会秩序の構成要件として、罪に対しては罰が宛がわれなければならない。それは社会の当然の要請である。しかし、片や一方で罪に向き合い、己に向き合い、人生の是非に向き合っている罪人がいるのに対し、それを論難し、弁護する側の無思慮ぶりというか紋切型のお題目を唱えてお終いぶりときたら。憔悴した被告席の男の世界観は知らぬし、知りたいとも思わない。だけれども、何かここに言い知れぬ不快があるとするならば、不完全な代物が不完全な代物を裁くというその一事にあるに相違ない。こんなことは言挙げするようなことでもないのだけれど、枯葉の舞い落ちる霞ヶ関の寂寥にふとほだされて、そんな思いが起こったのである。