乳と卵

川上未映子の『乳と卵』を読了。豊胸手術をする人は、一体胸に何を入れようとしているのだろうか、それが未映子の端的な疑問としてこの作品は書かれた、というようなことをトークショーで言っていた気がする。書き手の意図、というものはそれこそ読み手の取り方でいかようにも解釈されうるのだけれども、この小説についていえば、私は「なぜ生まれてきたのか」という視点で読んだ。
ネタバレで申し訳ないが、主要人物は3人。私、巻子、緑子。私と巻子は友達、39歳くらい。緑子は巻子の娘、中1くらいで学校では皆が生理になったりしてる。
物語性は前作同様ないようなものなのだけれど、とりあえず巻子は豊胸手術を欲望している。なんでか。答えは作品に語られない。話の合間に緑子の書く日記が断続的に挿入され、作品を彩っている。緑子の母親に対する違和が日記が書き進められるに連れて高まる様は狂的で、逆説的で、哀しくて美しい。
「単にあそこから出血する、ってことが女になることになって、それからなんか女として、みたいな話しになって、いのちを生む、とかそういうでっかい気持ちになれるのはなんでやろうか(中略)そういうもんやってことに、されてるだけじゃないのか、あたしは勝手にお腹がへったり、勝手に生理になったりするようなこんな体があって、その中に閉じ込められてるって感じる。」
「あたしはいつのまにか知らんまにあたしの体の中にあって、その体があたしの知らんところでどんどんどんどん変わっていく。」
「(食べて行かなければならないんだから水商売してるのも仕方ないだろうと怒鳴られたときに)あたしはそんなんあたしを生んだ自分(巻子)の責任やろうってゆってもうたんやった、でもそのあと、あたしは気がついたことがあって、お母さんが生まれてきたんはお母さんの責任じゃないってこと」
「あたしにのませてなくなった母乳んとこに、ちゃうもんを切って入れてもっかいそれをふくらますんか、生むまえにもどすってことなんか、ほんだら生まなんだらよかったやん、お母さんの人生は、あたしを生まなんだらよかったやんか、みんなが生まれてこんかったら、なんも問題はないように思える、うれしいも悲しいも、何もかもがもとからないのだもの。」
「それから、きのうのよる、お母さんの寝言でおきて、なんか面白いこというかなっておもってたら、おビールください、っておっきい声でゆって、びっくりして、ちょっとしたら涙がいっぱい出て朝までねれず、くるしい気持ちは、だれの苦しい気持ちも、厭やなあ。なくなればいいなあ。おかあさんがかわいそう、ほんまはずっと、かわいそう。」

と、こうやって書き写していてなんだか掻き毟られるような気分になるのはなんなのだろうか。この母子がとらまえられている大いなる存在の不安というか、実存の不安なんていう陳腐なものでは名状しがたい気配をかもし出しているわけで、ああ、なんかこの感じは江國香織の佳作『神様のボート』を読んだときに通じるものがあるのではないか。状況も近しいものがある。
未映子は最後に主人公(私)に鏡の前で裸の体を映させて「泣き笑い」という表現を使っている。ああ、そうなのだ、泣き笑い。この人の作品は、表現は、ヴォネガットのそれと等しく、泣き笑いなのだ。緑子と巻子が卵パックから卵を取り出して頭や額で次々と叩き割る壮絶なシーンにしても、いったい、ぜんたい、この身体はどこからきてどこへ行くのですか。明日も同じからだの、同じ心で、生きるのですか。こういう作品をしゅるっと書き上げる辺りに未映子の恐ろしさも賢しらさも狂気もあるのだけれど、もはやそれらも全部、泣き笑い。