美は観念にあらざるなり

西荻窪でAさんと食す。Aさんは旦那のある女子で、彩色美しい絵本を描く人で、絵本出版社につとめている。絵本出版社に入って、業界のいい面、いやな面、さまざま味わっているらしいけれど、好きなことにたずさわって仕事できることは素晴らしことですな。
さてニシオギ、ニシオギは気に入りの古本屋やカフェや料理屋やライブハウスがたくさんあって、歩いてる人や住んでいる人も自由人の風がどことなくあって、かねてから気に入りの街である。駅前にパチンコ屋がたくさんあるんですね、とAさん。どれと思ってみるとなるほど仰山ならんでおる。ゴタゴタと汚い。
方々の国々の絵本がたくさん置いてある古本屋に連れて行くと、パラパラとめくっては、これかわいい、あれ持ってる、これ持ってると実に楽しそう。カフェでAさんが描いた新作絵本を見ると、やはりいつもどおりのカラフルな彩色が施されていて、おれには中々できない体裁だった。
今日、小林秀雄江藤淳の対談を読んでいて、日本のインテリゲンツィア(知識人)は美というものをさっぱりわかっていない、と言ってるのを思い出しながら、絵本のページをめくっていた。インテリバカ男にはない女子の感性というものを考えながら。
対談の要旨は、インテリゲンツィア、まあインテリ男ということになるのだけれど、そのインテリ男はどうしても美に対して観念が先行して、つまり頭で美とはこういうもんだというのがまずあって、その杓子でしか美に対峙しないということ。
絵にしたって骨董にしたって、それらを皮膚の感覚で、いってみればクオリア的に味わうんじゃなくて、頭で表層的にしか見ないから、美についてああだこうだと散々論じたり吹聴したりするわりに、家に招待しても、客間に飾ってある骨董を丹念に触ったりするのかと思えば、一向に見向きもしないで平然としている。それはまさに現代審美病に相違ない、と小林は言ってのけている。
まったくもってそのとおり。なんて知識づいた男は観念的なことかと思う。
知識や観念で武装して、そんなものを教養だ、感性だとほざいているのはただの衒学、己の自意識の誇示にすぎないじゃないか。
絵や骨董にしたって、もの全般、風景でも何でも、それがもつ、生々しい手触り、呼吸、そういったものを味わう、つまり直接経験することなしに、いきなり頭から、ゴッホがどうだとかセザンヌがどうとか、唐津がどうだの伊万里がどうだの言っても詮方ないのだよなあ。
絵の展覧会に行くなどする前に馬鹿男(おれか)、ものを凝つと見つめよ。ものを膚で感ぜよ。