生活感情の裏打がない

小林秀雄の対談を読んでいるだけで、今日もまた様々なことを考えさせられる。そこには嘘や衒いがないからだ。小林の中学からの友人である文人河上徹太郎などが素直であると同時に衒いがたっぷりという感があるのに対して、小林にはそれがない。少年がそのまま大人になったような、どっぷりその感受性に信を置けるような、そんな感じなのである。フランス、イタリア、エジプトを周遊した旅について旅行記を書かないのかと永井龍男に尋ねられても、

旅行記なんというようなものは、やはり珍しがって書いたってしょうがないんでね。(中略)旅の空どころではない。何処も彼処も本当には納得のいかない、何だか親しみのない風景ばかり見せられる。何でも彼でも生活感情の裏打がないんです。人間や生活風景を見たって同じ感じですよ。何でも見るものが非常にどぎつく眼に映って、何といいますかね、感情が伴わないんです。(中略)やはり西行の旅とか、芭蕉の旅とか、ああいう旅が本当の旅だな。文学を生む旅だ。私の西洋旅行なんか、眼はいろいろなものを見ているけれども、心持のほうがいろいろなものに対して感動していないわけだね。心が伴わないんだね。カメラになっちまったようなものだ。」(小林秀雄対話集・文芸文庫より)

などという風で、こういう文章を読むと、ああ何と多くの人々は旅の記録や記憶のあることないことを誇大に膨らまして、生活感情がまるでそこに裏打されているかのように人に語ったり、日記をつけたり、旅行記を発表したりしていることだろうと思う。そしてウルルン滞在記のようなテレビ作品に感動してみたりする。別に悪いと言うわけではないけれど。
こういう違和をしっかり違和という形で見据えてあっさり言ってのけるのには、やはりおれは何か感動をおぼえてしまう。「生活感情の裏打がないんです」なんてことは、小林はこれを実にあっさり言っているけれど、なんとその人間の人となりを表した言葉かなあ、と思う。「生活感情の裏打がないんです」はいいね。
「君の夢には生活感情の裏打がないね」などと言われたらギクリとするなあ。
「この政策には生活感情の裏打というものが全くありませんな」と政治評論家が言えばハクがつくだろうなあ。
こんな言葉を地で吐けるような成熟した大人になりたいものだ。