罪と罰

硬く乾いた黄土のような我が心奥にすら、眩暈にも似た詠嘆をもたらす美しい物語がある。ドストエフスキーが紡ぎ出す、それらの物語の一つ一つの凄絶に対面していると、他の物語の一切がどうでもよくなってしまう。取るに足らないのだ。ドストエフスキーがあれば、現代小説なんて読む必要はない、とすら言える。とりわけ宗教という絶対を純粋のうちに培えなかった我々は、状況主義に陥った結果、その時々の支配的な状況に右往左往されて、人としての格や人生の節を軽んじてきた、というより日本の民族性とは古来から「世間」の目さえ届かなけりゃ何でもありという特殊性のうちに宿っているのだろう。
むろん、それを指弾するつもりはさらさらないけれど、例えば人間の不完全性に仮託しただけの陳腐な恋愛小説を読む暇があったら、不完全性に絶望し、それを越えた先にある信仰や敬虔といった絶対をおれは知りたい。
罪と罰』。全てに絶望しきったラスコーリニコフが、馬車に撥ねられて瀕死の元官吏マルメラードフを、おんぼろの彼の借間に担いでく。マルメラードフの妻、カテリーナ・イワーノヴナが呑んだくれの亭主に悪態をつきながらも介抱する中で、好奇心を剥き出しにした有象無象を掻き分けてマルメラードフの一人娘で、売春婦にして穢れなき心の持ち主であるソーネチカが派手な格好で入ってくる。医者がもう長くはないと宣告し、僧侶が祈りを捧げる、絶望的に清貧にして静謐な一幕。ラスコーリニコフは手持ちの有り金のほとんど全てをカテリーナに渡して、足早にその場を去る。その後をカテリーナの幼子が追いかける。・・・この非常に素朴な描写の連綿の中に、最も純粋な美が描かれている。このような在り方を可能にするのは、キリスト教に根ざした純粋性というものだろうか。ヨハネ伝の11章、ラザロの復活のシーンをソーネチカに音読させるラスコーリニコフがソーネチカの心の在り方を確信するように、おれも文学とは、このような絶対性に根ざさない限り、第一級のものにならないことを確信するのである。
ドストエフスキーに関しては今年中に全著作を読破しようと思った。