文字の洪水に流されない

大きな本屋に足を入れると、溢れんばかりの文字と色の渦に最初は眼をしばたたかせ、目当ての本が隙間ない整列の中から見出されると心踊り、他の本の装丁やら帯やらあとがきやら出だしやらポップやらを眺めているうちに次第に飽きとともに嫌気がさして退出する。


新刊やロングセラーの帯を見やれば「○○賞受賞」「何万部突破」「○○人が泣いた」「サイトで○○万ヒット」「○○氏絶賛」「今年最高の〜」といったお決まりのパターンから始まって、手の込んだ内容のものまでがツラツラと書かれている。そのどれもが大袈裟で、帯は内容ほどに多くを語っている感が否めなくて辟易させられるのだけれど、そんな帯どもの渦、本どもの渦、文字インクやらカラーの渦、そしてそれらが構成する虚構の渦に圧倒されながらも、おれが気持ちよく思えることは、「こんな本どもの一切と無関係に生活は成り立つ」という一事だ。喜怒哀楽の物語、真実の告白、偉そうな論難、愚にもつかないおしゃべり、スキャンダルやらセンセーショナリズムの一切合切はなければないで一向に構わない。それはテレビにもいえる(いや、テレビにはなおのこといえるし、だから一日に10分も見ない。)


現代の女性作家のコーナーなど見ただけで、あるわあるわ、切ないだの涙だのラブストーリーだの珠玉だの渾身だのって。ページを開けば開いたで、頭の数だけのチープなストーリーテリングをこれでもかと見せつけられるわけだ。好きなときに好きなものを食べ、暖かい寝床があって、たいした病気も知らず、ちょっと働けば海外旅行に出かけられる、そんな富裕にして自由気ままな精神が語るところの物語の何が珠玉なことか。小林秀雄に言わせりゃ「(そんなつまらない恋愛話に興をみつけて)何をやってるんだ諸君」ということになる。


しかし、そこまで言わなくてもという気分が少しはあるから、それらの物語どもの山を片っ端から読んでいって、「やっぱりつまらん」と言ってやりたい気がする。気がするだけで、そんなのに身銭をきりたくないから図書館で借りようなどと思うも、そんな本にかぎって予約待ちが多いからうんざりさせられるね。


一方で名著というのはあるわけで、古典で生き残っている多くはそうであろうし、現代作家のなかにだって時に見出されるのである。曽野綾子だったりね。だから本屋散策は宝探しに似ている。偽装表示された珠玉が多いけれど。