アルチュール・ランボー

ダラダラとした休日を過ごす。休日はダラダラと過ごすに限る。
正宗白鳥の文章を味わったり、小林秀雄の講演CDを聴いたり、アルチュル・ランボーの伝記映画を観たりして過ごした。映画は面白いのだけれど、最後があの描き方じゃあランボーに対してあんまりではないかと思う。そして、文学界に発表された川上未映子の作品『乳と卵』を読む。未映子の小説作品は私小説ならぬ、<私>小説である。大阪弁の語りが気持ちのよいエンタメ小説かと一見思わせながらも、ところどころに埴谷雄高が言うところの「自動律の不快」が散りばめられていて、ははあ、もっとやれ、もっとやってみろ、という気分になってくる。
今日は町田になんとはなしに行って、画材を購入する。木製パネルと水張りテープ、刷毛、スケッチブック。刷毛の触感の気持ちのよいこと。毛のふうわりサワサワした感じ。
画材屋はいつ行っても静かな空気が流れていて、好きである。雨がしとしと降って、肌寒く、秋も終わりに近づいていることに今更ながら驚かされる。
それにしてもランボーランボーはどうして詩に見切りをつけて、エチオピアに行って武器商人やら奴隷貿易にまでに従事したのであろうことか。己が若き日に思い描いていたことと正反対のことをなしながら暮らしているだなんて、映画ではセリフを吐かせていたけれど、そこに一体何があったのだろうか。思想と実生活。
ランボーはアフリカで足の病に倒れ、本国に戻って足を切断するも、やんぬるかな、37歳でその生涯を終える。彼以後の世代の創作詩に決定的な影響を残しながら。はてさて。
小林秀雄訳の『地獄の季節』でも読むとするかな。