日々の泡

毎夜飲み会が続く。繰り返される組織の方向性についての展望と愚痴、二枚舌とポーカーフェイス。そんなことは、宇宙論的にいってどうでもいいことばかりじゃないか。そうやって全て片付けたくなる。出世というものに、興味がない。
どだい、何が何だか分からぬままに産み落とされて、何が何だか分からぬままに死に至る人間存在、というより宇宙の摂理の神秘不可思議を前にしては、どんな日常の「大問題」も小事と化す。
まあ、さはさりとて、どこまで本心なのかわからないけれど、小事についてよくぞここまで、ああでもないこうでもないを煮詰められるものだと感心するのも事実なのである。
しかし感心なんぞしているうちにも時は容赦なく過ぎ行くのであって、集団的な論理に歩調を合わせているうちに感受性は確実に鈍磨していくものである。
むろん感受性というのも考えようで、小林秀雄も語るように、感受性が強すぎると頭が狂ってしまうわけだけれど。
いずれにしても、発話が空気の振動であり、文字がインクのシミであるとしか思えないような言語空間というものは峻拒したいところである。
精神が時熟に至る道程を示唆してくれる言語空間、そういったものに囲まれて生きていたいものだと思うし、そういった努力をするべきなのだ。
日本近代文学大事典6冊が届く。とても有用な事典だけれど、レファレンスとして使うにも、もはや机上も本棚もパンクしている。もうそろそろ引越しするかな。引越しの候補地は決まっている――鎌倉。小林秀雄が眠る地。