剥落の味

誕生日が過ぎる。ずいぶん生きたなあ、と思う。大きくなったなあ、と。まるで庄野潤三の小説の出だしみたいだけれど。
林芙美子の談話を聴く。とても芯の通った、しみじみとした語り口。
例えば終戦直後の日本人について。

「(洗濯のように、日本人が)大ゆすぎにゆすがれることはいいんじゃないかと思うんですよ。人間は一度、落剥の味をなめて、泣くだけ泣かなきゃね、いい人間になれませんよ。
あたしはそう思ってますね。だから泣いたことのない人間なんてね、嫌らしいし怖いしね、つまらない人間だなって思いますね。」

落剥(らくはく)の味を舐める、か。それを考えれば、落剥の味を舐めないで二十代を通過しようとしているな。仕事の面でいえば、ステディで、堅くて、安定の一文字に尽きる。最近知り合った友達なぞは、名刺にえらくなんだか反応して、つながりができたのが嬉しいなどと言っていて、そんなものは単なる肩書きで甚だ現実との乖離があって、冗談じゃないと思う。私生活の面では、多分に不安定ではあるのだけれど。

しかし林芙美子の言を考えるに、落剥の味を舐めて、人間が擦れて嫌らしくなる人間だっているだろうから、やはり落剥自体よりも、その味を舐めた人間個人のものの感じ方、考え方、それに尽きるのではないかと思う。
こればっかりはたましいの気質だから、いい人間になるというのも、たましいをよくするっていう話になって、こういう話をするとすぐに非科学的でオカルト的だという、合理主義が出てきてうざったるいのだけれど、人生の辛酸を舐めるというのは、やはり一つのたましいを磨く契機なのだと思う。そんな当たり前の事実にオカルトや宗教を持ち出す必要なんてなく、端的にそう思う、そう感じる、それだけだ。

文芸春秋求龍堂から出ている小林秀雄の対談集が届く。よきものを志向するたましいの交歓録。『死霊』の傍らでゆっくり味わおう。