4つのM

西部邁の『妻と僕』を読む。死の時間に片足を突っ込みつつ、浮き世の雑事に追われていると、どうしても心棒を固めてくれるようなソリッドな文章に触れたくなる。
そういう意味では西部翁の、その生き様にまで高揚した論理が散らばっている本書を読むと、一服の清涼剤となって心地いい。
現代ニッポンの意味深長な観念小説も、読者にへりくだった扇情小説も読む気にならないのは、そこに生き様にまで高めらたような覚悟も悲哀も感じられないからだろうか。
西部翁は本書で戦後日本を平定しているのは詰まるところ4つのMだと書いていて、それはマスによる、ムードの、モーメントだけの、ムーヴメントだと。大衆の感情に支配された一時的にすぎない行動。これにメディアのMを加えてやってもいいのかもしれない。
今の都議選やら衆院解散の不毛な狂熱にしたって結局は4つの(5つの)Mに支配されていて、自民の敗色は色濃いに違いないだろうが、民主党が政権与党になろうと、政治が刷新されて道程が明るく照らし出される訳ではないというこの閉塞感はどうしようもない。そういえばあれだけ騒いだ豚インフルエンザ騒ぎはどこにいったのやら。メディアが冷めればムードも冷めるというこの単純明快の中にニヒリズムの腐臭が立ち昇る。

弔いの日に

戦争も飢餓も知らない世代にとって、死というものが突如として突きつけられると、呆然を通り越して得体の知れない奇妙な感覚に襲われる。
江藤淳が『妻と私』の中で記している、日常性と実務の時間から離れた世捨人のような「死の時間」というのはこのような時間感覚なのだろうか。
死とは端的に胸を塞ぐものなんだと噛み締めさせられる。街中から流れるスピーカー音、笑い声、街頭演説、その他諸々の諸事雑事が醸し出す様々なる世界がまるで非現実なものとして目に映る。死を見つめることによって真剣に生に取り組める、などと人口に膾炙した言説に与するつもりはないが、死というそれ自体ニヒルなものを前にすると、やはり自分が今取り組んでいることの全てに対して点検が迫られるのは確かだ。そうしないことには、不気味な訪問者たる虚無主義の前にすっぽり自分が飲み込まれるような気がする。
そして死者への最大の追悼は、死者の魂を傍らに置いておくということだろう。傍らに置いて、時に問いかけ、時に相談し、時に生前の甘美な思い出に浸る。
そうして一つまた人間として精神を時熟に向かわせたい。それが死者への最大の弔いと思えばこそ。

三沢が死んだ

三沢が死んだ。死んでしまった。
呆然である。文字通りの呆然だ。また一人、自分の心のどこかの支柱となっていたような大きな星が墜ちた。
プロレス観戦からは大学卒業して以来久しく遠ざかっていた。三沢のノアや新日本や全日本がその後どんな状況だったのか全く明るくない。
齋藤の殺人級の高角度バックドロップは見ていて恐ろしいほどの角度だが、まさかこのようなことになるとは。
スポーツうるぐすをつけると全くどうでもいいサッカーや卓球の話題。裏番組も野球特集とサッカー・・。ふざけるな。
リングの上で死ぬのは不幸とか、本望とか、そんなことはどうでもいい。
そんなこと、三沢がレスラーとして28年やってきてとっくに覚悟の上に決まっている。
そうだからこそ三沢のプロレスは、ショープロレスだの八百長だのと有象無象が言うのを払拭するかのように、丁々発止の激闘を毎回毎回繰り広げてきたわけだ。
心から冥福を御祈り申し上げる。

絨毯売り的人生

トルコから昨日帰って来、時差惚けの心地よい非現実感もようやく醒めつつある。
対流圏と成層圏の境目あたりにある、神々しい青と朱色の織りなす光景から一挙に下降して雲をすり抜けると、灰色に覆われた成田の田んぼ畑が眼界に広がる。
ああ、帰ってきたのだ。

トルコという国は、一般に親日的といわれる。しかしそれは、大使も言っていたが、皮相な謂いだと思う。
彼らの微笑みの裏には、少しでも相手を敵と感じ取ればすぐに手のひらを返す怜悧さがある。
ボスポラス海峡をはさんでヨーロッパ側とアナトリア側では多少の色が違うだろうが、
今回イスタンブールアンカラに行って有象無象のトルコ人と触れているうちに確かにそのような側面を色濃く感じた。
イスタンブールの街中を歩いていると、カタコトの日本語で声をかけてくる青年。日本で日本語を勉強したという。もっぱらその「勉強」はスクールによるものではなく、日本人の女から直に学ぶようだ。
流暢な日本語でしゃべる絨毯売りの男も、日本で女でも作らない限りこんなに上達するわけないと豪語していた。
若くして日本に行き、ジャポンギャルズと遊んで(あるいは本気になって)日本語を習得し、
トルコに帰って絨毯売りとして日本人観光客をカモにする。その人生を想像すると、小憎らしい反面
なかなかに面白い人生ではあるなあとしばし感慨にふける。
そしてウシャク産の草木染の手織りのキリムが美しかったので買ってやった。

トルコの発展ぶりは、昨年末に行ったメキシコとよく似ている。ODAの基準で言えば中所得国に位置づけられるのだろうが、トルコの場合、円借款以外のODAはもう卒業だろう。大使館の経済協力担当も、近い将来トルコが日本を抜いて行くと語っていた。
歴史的建造物の合間を縫って現代的なビルディングが建ち並び、渋滞した車の列が必要以上にクラクションをならしまくる。
現代的都市の相貌は国こそ違えど似てくるものなのだろう。

老人の眼差し

公園や図書館のベンチの背にもたれかかり、子供たちや鳥たちの戯れを眺めるともなく見守っている老人たちをたまに見かける。
老人の・・嗄れた瞳の奥に沈殿する光がとらえる、躍動し、惹起し、移ろいでは消えて行く若々しい生命の彩りはどんなものなのだろうか。時にふと考えることがある。
今日のような、いつもの仲間たちとのいつもの乱痴気騒ぎの最中、言葉が飛び交い、煙草の煙が滞留する中で、ふとカウンターの中に据え付けられたモニター画面に映る無音の深海の映像の断片を眺めやる。老人たちの無垢な凝視の基礎にあるのも、こんな離人症めいた観照の感覚なのであろうか。
秀吉が辞世の句として取り上げたのは、聚楽第が完成した際に詠んだといわれる「露と落ち露と消えぬる我が身かな浪華のことは夢のまた夢」であるという。
なんと世界とは夢のようだろう。思いのたけ愉快に生きて、思いのたけ愉快に死ぬ。それを体現しているからこそ天下人・秀吉の句には真実味が宿るのだろう。
我々はへたをすると生き惜しみをしていないか。
先日行った東京一旨いという虎ノ門お好み焼き屋のオヤジ(68歳)は、自分が自分で大好きだと豪語していた。
人の素振りを見て自分の素振りを右へならえで直すようなせせこましい生き方はやめろ、と。思いのたけ生きればいい。
森山直太朗は『生きてることが辛いなら』の中で「生きてることが辛いなら いっそ小さく死ねばいい 恋人と親は悲しむが 3日と経てば元通り」と歌い上げていた。なかなかうまいこと歌い上げると思う。これを人生の一大讃歌ととらえるか、軽佻浮薄な煽情歌ととらえるかは、人間の性質の問題だ。
咲き始めた桜に季節の胎動を感じながら、清々しく生き、そして惜しまれながら散った池田晶子の魂に心馳せる。

ナイス、ナイス、ヴェリナイス

WBC決勝、日本が勝った。まるで筋書きつきのドラマのように9回裏で追いつかれ、延長に突入したあげくの大接戦を制した。
そこにあるのは感動だけだ。イチロー、おいしいところだけ持って行ったのかもしれないが、10回表のツーアウト2、3塁のあの状況、2ストライクのカウントで追い込まれたあの状況での1打点というのは、本当に神の一打だった。野球の神が微笑んでくれたとしか形容できない。後から何遍でも振り返ることはできる。まるでそれが自明の事実であるかのように。
しかし「今が全て」なのだ。あのモーメントにおける「今」がすべてなのだ。知ったかぶった解説も腰の浮いた野次も関係ない。あの瞬間、あの状況下で打つ、それにへったくれもくそもない感動があるのだ。
本物は強く、偽物は砕け散る。そういう世界は美しいし、世界はすべからくそうであるべしと思う。
高橋源一郎「さようならギャングたち」を読む。滅茶苦茶である。滅茶と苦茶が綱引きをしている感じである。
何が面白いのかわからないがきわめて断片的に面白い箇所があるので、それでよしとする。
福田和也が「作家の値打ち」で「文学的自意識自体をリリシズムに昇華したという一点だけでも評価に値する」と書いてある。何をたわけたことを言っているのだろう。
文学的自意識ってそもそも何のことだ。定義をしてから先に進みなさい。
自分が評価するならこうだ。ガジェットを散々まき散らしている中に美しい花をちょこっと置いているので、必要以上に花が美しく見える」
そんな美しさも、決勝のイチローの一打に比べれば、砂上の楼閣のように消し飛ぶ一抹の塵芥にすぎない。・・・というのはきっと言い過ぎなのだろう。

サリエリ的悲哀

旧友の勧めにのって『アマデウス』を観た。実に味わい深い作品であった。
古書読むべく 古酒飲むべく 旧友信ずべきとは言ったものだ。

しかし物語は友情物語などではなく、己の才能に絶望的になる余り、神を呪詛し、天賦の才能を無垢なまでに溌剌と見せつける男(アマデウスモーツァルト)に執拗に嫉妬し、そして同時に心の底までその音楽を愛する男(サリエリ)という構図となっている。まあ余りくどくどしくは書かないが、この一つの寓話の中には努力で超えられない、神の造形ともいうべき一個の才能への怨念が閉じ込められている。
美しい音楽、美しい演舞とは裏腹の、血のしぶくような情念。

セレナード第10番「グラン・パルティータ」第3楽章を聴いたサリエリの言葉は、刺々しくも美しい悲哀に満ちている。

初めて耳にするような音楽。
それは満たされぬ切ない思いにあふれていた。
── まるで神の声を聴くような音楽だった。
なぜ?なぜ神はかくも下劣な若造を選んだのか?(『アマデウス』)

サリエリの声は世界の縮図だ。
今もどこかでーーーこの世のマエストロたちが紡ぐ天国的な音楽の陰で、静かに、暗い、鬱屈とした炎が燃え盛っているのだろう。
サリエリ的悲哀。