弔いの日に

戦争も飢餓も知らない世代にとって、死というものが突如として突きつけられると、呆然を通り越して得体の知れない奇妙な感覚に襲われる。
江藤淳が『妻と私』の中で記している、日常性と実務の時間から離れた世捨人のような「死の時間」というのはこのような時間感覚なのだろうか。
死とは端的に胸を塞ぐものなんだと噛み締めさせられる。街中から流れるスピーカー音、笑い声、街頭演説、その他諸々の諸事雑事が醸し出す様々なる世界がまるで非現実なものとして目に映る。死を見つめることによって真剣に生に取り組める、などと人口に膾炙した言説に与するつもりはないが、死というそれ自体ニヒルなものを前にすると、やはり自分が今取り組んでいることの全てに対して点検が迫られるのは確かだ。そうしないことには、不気味な訪問者たる虚無主義の前にすっぽり自分が飲み込まれるような気がする。
そして死者への最大の追悼は、死者の魂を傍らに置いておくということだろう。傍らに置いて、時に問いかけ、時に相談し、時に生前の甘美な思い出に浸る。
そうして一つまた人間として精神を時熟に向かわせたい。それが死者への最大の弔いと思えばこそ。