ナイス、ナイス、ヴェリナイス

WBC決勝、日本が勝った。まるで筋書きつきのドラマのように9回裏で追いつかれ、延長に突入したあげくの大接戦を制した。
そこにあるのは感動だけだ。イチロー、おいしいところだけ持って行ったのかもしれないが、10回表のツーアウト2、3塁のあの状況、2ストライクのカウントで追い込まれたあの状況での1打点というのは、本当に神の一打だった。野球の神が微笑んでくれたとしか形容できない。後から何遍でも振り返ることはできる。まるでそれが自明の事実であるかのように。
しかし「今が全て」なのだ。あのモーメントにおける「今」がすべてなのだ。知ったかぶった解説も腰の浮いた野次も関係ない。あの瞬間、あの状況下で打つ、それにへったくれもくそもない感動があるのだ。
本物は強く、偽物は砕け散る。そういう世界は美しいし、世界はすべからくそうであるべしと思う。
高橋源一郎「さようならギャングたち」を読む。滅茶苦茶である。滅茶と苦茶が綱引きをしている感じである。
何が面白いのかわからないがきわめて断片的に面白い箇所があるので、それでよしとする。
福田和也が「作家の値打ち」で「文学的自意識自体をリリシズムに昇華したという一点だけでも評価に値する」と書いてある。何をたわけたことを言っているのだろう。
文学的自意識ってそもそも何のことだ。定義をしてから先に進みなさい。
自分が評価するならこうだ。ガジェットを散々まき散らしている中に美しい花をちょこっと置いているので、必要以上に花が美しく見える」
そんな美しさも、決勝のイチローの一打に比べれば、砂上の楼閣のように消し飛ぶ一抹の塵芥にすぎない。・・・というのはきっと言い過ぎなのだろう。