老人の眼差し

公園や図書館のベンチの背にもたれかかり、子供たちや鳥たちの戯れを眺めるともなく見守っている老人たちをたまに見かける。
老人の・・嗄れた瞳の奥に沈殿する光がとらえる、躍動し、惹起し、移ろいでは消えて行く若々しい生命の彩りはどんなものなのだろうか。時にふと考えることがある。
今日のような、いつもの仲間たちとのいつもの乱痴気騒ぎの最中、言葉が飛び交い、煙草の煙が滞留する中で、ふとカウンターの中に据え付けられたモニター画面に映る無音の深海の映像の断片を眺めやる。老人たちの無垢な凝視の基礎にあるのも、こんな離人症めいた観照の感覚なのであろうか。
秀吉が辞世の句として取り上げたのは、聚楽第が完成した際に詠んだといわれる「露と落ち露と消えぬる我が身かな浪華のことは夢のまた夢」であるという。
なんと世界とは夢のようだろう。思いのたけ愉快に生きて、思いのたけ愉快に死ぬ。それを体現しているからこそ天下人・秀吉の句には真実味が宿るのだろう。
我々はへたをすると生き惜しみをしていないか。
先日行った東京一旨いという虎ノ門お好み焼き屋のオヤジ(68歳)は、自分が自分で大好きだと豪語していた。
人の素振りを見て自分の素振りを右へならえで直すようなせせこましい生き方はやめろ、と。思いのたけ生きればいい。
森山直太朗は『生きてることが辛いなら』の中で「生きてることが辛いなら いっそ小さく死ねばいい 恋人と親は悲しむが 3日と経てば元通り」と歌い上げていた。なかなかうまいこと歌い上げると思う。これを人生の一大讃歌ととらえるか、軽佻浮薄な煽情歌ととらえるかは、人間の性質の問題だ。
咲き始めた桜に季節の胎動を感じながら、清々しく生き、そして惜しまれながら散った池田晶子の魂に心馳せる。