昨日は代々木で人混みごった返す中、フィギュアスケートのアイスショー「スターズオンアイス」へ。

メディアで何度も観たおかげもあって2次元と3次元の違いを区分けするのが難しかったが、やはり本生は違う。
崇拝の手続きを経られた肉体における精神的舞踏・・・それがフィギュアスケートだ。
自分はミーハーなファンよろしく浅田真央観たさで行ったわけだが、演目は期待していた仮面舞踏会ではなくカプリースで、ややミスが目立った(これは他の選手も同様)。そんな中で荒川静香が大人の優美な演技をこなし、申雪・趙宏博の金メダル夫婦が実に魅惑的で妖艶な演技をしていたと思う。
そしてロシェットのアポロン的な肉体美はよかった。キムユナも出ていればなおよかったのだけれど、この国のムードじゃ出にくいのだろう。
今日からハングルを勉強している。近くて遠い国、韓国について知るためだ。
韓国の国定歴史教科書も購読。以外と再発見が多く、そして見事なまでに民族自尊と反日感情を醸成する構成になっている。
韓国人が反日的であっても無理はない。日韓併合とその前後の抑圧的体制は事実であるし、結果半島人が日本に流れ込み、今の在日朝鮮人のルーツになっているのも事実である。「在日は祖国に帰れ」とか便所の落書きみたいな掲示板でよく語られるが、在日の原因は自国の歴史戦略の一つの帰結なのであってみれば、まずそこから我々が内省しない限り、ただの思慮のたりない餓鬼の発言にすぎなくなる。
ハングルのテキストを購入したついでに山川のもう一度読む世界史も購入。これから一気読みでおさらい。ヘーゲルのように歴史を一つの弁証法的発展として読むことは面白い。
見開き写真が載っていて楽しい。西暦80年、壮観な白亜のコロッセウムの異様。2000年近くの時を経てもその荘厳と畏怖をたたえている。
明日から熊本に出張で初日は天草へ。島原の乱で祭り上げられた天草四郎時貞を輩出した地。

グラン・トリノ

クリント・イーストウッドグラン・トリノ』を観賞。
アメリカ移民のモン族と白人の老人とのささやかな、しかし味のある親密な交流を描く。
アメリカ(舞台は中西部だが)が抱える人種差別や暴力・銃社会といった理不尽で硬質な世界をバックグラウンドにすると対照的に人間的な愛情描写が際立って感ぜられるものだ。
この点、日本は眼につく人種差別や暴力や銃がないこともあって、文芸や映画を撮る舞台としてはテンションにかける。
(小説にしろ、映画にしろ日本にいまだ本格的なハードボイルドが存在しないのはそのためである。)

御年79歳にもなるイーストウッドが主演もつとめているが、これがまた尋常ではない味を醸し出している。
するどい眼光、無駄のない動き。退役軍人が放つサラリーマンにはない枯れた哀愁をうまく体現しているあたり、さすがである。
そして72年式グラン・トリノのフォルムの美しく屈強なこと。1970年代半ばに生産されていたフォード・トリノを通称して呼ぶらしいが、機能性をおよそ度外視した大柄かつ鋭角なフォルム、年季を感じさせない磨き上げられたダークグリーンの光沢は車乗りでなくても魅せられる。
因習的で、頑固で差別的で自身の子供とも不和が絶えない・・・しかし屈強で熱い魂を持つアメリカ老白人を演ずるイーストウッドは現代の人間類型からいってまさにグラン・トリノ同様の骨董品なのだろう。
しかしそのような骨董品のような屈強な父親像はどこか永遠の人間性を感じさせて、強い郷愁を覚える。

Viva La Vida

昨日は友人の結婚式に行って来た。
表参道の閑静な住宅街にある豪奢なパーティ用のガーデンプレイスにて。
友人の友人としてパティシエの柿沢さんが来ていた。最近は情熱大陸にも出演して活躍が注目されている。
年齢は一つしか違わない、ひょうひょうとした女性だったけど、やはり才気ある人特有の「眼」をしていた。
好奇心がおそらく尋常じゃないのだ。おれのように何事も俯瞰してみるような性質じゃない。
好きとなったらがむしゃらに何も考えずに飛び込んで行くんだろう、そんな眼。

Cold Playの「Viva La Vida」を聴いている。

昔々、僕は世界の王様だった。
僕の一声で海の水位が上昇した。
今では孤独の朝に眠り 
昔僕のものだった路を掃き清めている(拙訳)

21世紀はロックが進化しているなと思わされる。
ロックアートというか前衛というか、単調なビートやメロディには組せずに新しい音の領域に飛び込んでいく作品が多い気がする。
Cold Playしかり、Radio Headしかり、Keaneしかり。
聴いていて無理のない心地よさが何とも言いがたく、いい。
たまにはグツグツと煮えたアルバートアイラーみたいなジャズが聴きたくなるけれど、戦いで疲れきった脳にUKロックは最高。

あるひとつの達成

自分が長い時間かけて、時に虚無を感じながら、半ば投機的に運んできた一つの仕事が、なんとか形になってまとまった。
自分の仕事とは、いやしくも公僕と呼ばれる人たちがしっかり無駄のない仕事をやってるかをチェックするというものなのだが、
今回は長い間自分のやってきたことが結果として結実し、先日大手新聞社の夕刊に割と大きな記事が出た。不思議な感じである。
自分が避難した独立行政法人は今まさに行政刷新会議の対象になっていておおわらわのようだ。
独立行政法人といったって聞こえがいいのは名前だけで、コスト意識は国の役人より低かったりもする。
彼らの資本の大部分は国からの運営費交付金であって、事業収入などほとんどあってないようなものだからだ。
金はまわされるべきところにまわすべきというのは、当たり前のことだが、そういう当たり前の議論がされないで今日まで至っているのは本当に不思議なことだ。

ここしばらく仕事に集中してる間、本が読めなかった。特に小説のたぐいは。話題の1Q84も読んでみたけれど、あまりの退屈さ・リアリティのなさに上巻の半分で投げ出した。ある種の文章は洗練の度が超えると逆に読みがたくなるものだ。
読書からはなれた一方で、マッサージにはほぼ週1のペースで通った。癒しが直接的になった。
自分がよくいくのは下北沢の中国人が経営しているマッサージ店。マッサージの最中も店員同士、中国語で意味不明の会話が織りなされている。「なんてひでえ臭さだ」などとほざいているのかもしれない。
そんな忙しさからも解放されて来、ようやく落ち着いて本を読めるようになった。自分を押さえつけていたしがらみめいたものに解き放された。
今はカラマーゾフの兄弟を再読している。新訳ではなくて新潮文庫の旧訳で読んでいる。やはり名作として歴史に耐えてきた文章には味わいがある。ヴィトゲンシュタインが50回も読むだけのことはある。なぜかくも燦々たる魅力を現世まで照射しつつ衰えをしらないのか。それは彼の扱う作品の中に「人間」が凝縮しているからにほかならない。このような内奥をえぐるような作品に一個でも多く触れることは間違いなく人生の愉しみの一つだろう。
とまたまた脱線を繰り返して夜も更ける。

悲しい色やね。

レオ・コッケの『アイス・ウォーター』を聴いて打っている。
サイケデリックにひずんだエレクトリックなスライドギターの音色が雨降りの憂鬱を払ってくれる。
好きな感性をネットのサーフィンでたまたまみつけて、日記などを読むとずいずいと引き込まれて行って、それが異性だったものでそのまま恋心に似た崇高な気持ちに高まったのだけれど、これまたネットサーフィンで顔写真なんかを検索したら見事に期待を裏切られる顔立ちに出くわしたときの衝撃を皆さん経験したことがおありでしょうか。

自分はそれに今宵出くわしてひどく沈鬱なのです。結局見た目なのか?
人は見た目が何割とかいう本があったが、それを上回る圧倒的な感性の力が勝つんではないのかと、これまではそこはかとなく信仰していましたが、もろくも木っ端みじんにそんな神話は粉砕されました。

思えば池田晶子、せわしなく日々を過ごす我々の脳髄に「ほんとう」をむき出しで突きつけてくるあの感性もあの美貌に支えられているのに間違いないのでしょう。川上未映子しかり。手島葵しかり。彼女たちの顔がみな片桐はいりだったらおれはきっと見向きもしないのだろうなという確信犯的真実。それを思うとなんともやりきれない気分になる。これら現代日本に舞い降りたミューズの化身たちもやがて色褪せていく日がくるのだろうか。来るのだろう。それは例えば起こるべき大衆迎合なんかによって簡単に。
だからディレッタントは常に新鮮な感性を求める。そしてその感性は外から見ても美しくなければならない。
嗚呼。

ヘヴン

先週末はアホ友のM美から荷電あり、なんでも家にゴキブリが出たとのことでヘルプミーとのことだったので、月島くんだりまで行ってきた。
たまたまディセントというけったいな、しかし身の毛もよだつホラー映画を観てたばっかりに戦闘態勢になっていたので、気の向くままに出かけ、気の向くままにゴキを退治した。
しかしなんであの生き物は視角がとらえるやいなや反射的に恐怖と殺意をもよおさせてくれるのだろか。きわめて興味深いと思う。
翌日は鎌倉は由比ケ浜で寝転がり、サーファーたちの楽しげな波との戯れを見やりながら茫洋とした気持ちになった。茫洋。
川上未映子の新作を読む。テーマは差別といじめ、そして或る意味次元での信仰とルサンチマン。文章としてはずいぶんと行儀がよくなったなという印象。ただし、文脈の中に脈絡のない不協和音みたいな描写が挿入されたりしていて、これは未映子が特有に持つ狂気を描く特殊な能力なのだと思わされる。例えば、トイレの中で身を潜めた主人公が、トイレの外でひそひそ話をするいじめっ子どもの会話に聞き耳を立てるシーン。教室に現れた百瀬の妹?らしき女が教室に口笛吹いてやってきた百瀬の腕をつかんで(主人公を無視して)百瀬と一緒に教室から出て行くシーン。あんなのはストーリーの構成上いらないといえばいらないのだが、何とも言えない、いじめっ子どもの溌剌とした不気味さを描いていて、現代の寄り道のない愚直なプロットしか描けない作家と一線を画している。
今はショーの『人と超人』を読んでいる。ショーは食わず嫌いだっただけで、実は人間のおもしろ可笑しさを題材にしていて馴染み深いのかもしれないな、と思うこの頃。
明日は隅田川の花火大会、ですな。

PETER FINGER

今日は曙橋のBACK IN TOWNでピーターフィンガーのライブを聴いた。
フィンガースタイルのアコースティックギターミュージックという、今でこそ巷に氾濫している一つの音楽領域において、ささやかではあるが確実な達成を積み上げている人。アコースティックギター1本で奏でる音楽を、ヨーロッパの音楽的伝統を踏襲した上で独創的に練り上げて芸術の領域まで引き上げた燦然と輝く巨星、それがピーターフィンガーだ。
本日の演奏は、50歳の大台も半ばにいたって、寄る年波のせいもあるのだろう、激しい曲の中でミスタッチがいくつか見られはしたものの、例えば「We Meet Again」に見られる、おそろしいほどまでに統制されたリリシズムに静かな感動を覚えるのである。
自分もそうだが、ある種の人間にとって、一般に通暁されているような音楽というのはそれだけで敬遠してしまうものなのだ。
人知れず密かな場所で、密かな音楽的な胎動により、密かな、しかし確実な燭光を放っている音楽を見つけ出したい、そして愛したいという願望が自分にはある。衆目の手垢で愛でられるようになった音楽は、自分がわざわざ耳を鍛えて良さを探しにいかずとも、すんなり耳に届く良さがあるもので、それはそれで全然良いと思う。
19の頃、ピーターフィンガーの楽譜や音源を仲介業者から取り寄せて耳にしてから、自分の耳は確実に変わった。
そんなフィンガーにとても感謝しているし、自分にとってひたいに印のある麒麟児なのであった。