あるひとつの達成

自分が長い時間かけて、時に虚無を感じながら、半ば投機的に運んできた一つの仕事が、なんとか形になってまとまった。
自分の仕事とは、いやしくも公僕と呼ばれる人たちがしっかり無駄のない仕事をやってるかをチェックするというものなのだが、
今回は長い間自分のやってきたことが結果として結実し、先日大手新聞社の夕刊に割と大きな記事が出た。不思議な感じである。
自分が避難した独立行政法人は今まさに行政刷新会議の対象になっていておおわらわのようだ。
独立行政法人といったって聞こえがいいのは名前だけで、コスト意識は国の役人より低かったりもする。
彼らの資本の大部分は国からの運営費交付金であって、事業収入などほとんどあってないようなものだからだ。
金はまわされるべきところにまわすべきというのは、当たり前のことだが、そういう当たり前の議論がされないで今日まで至っているのは本当に不思議なことだ。

ここしばらく仕事に集中してる間、本が読めなかった。特に小説のたぐいは。話題の1Q84も読んでみたけれど、あまりの退屈さ・リアリティのなさに上巻の半分で投げ出した。ある種の文章は洗練の度が超えると逆に読みがたくなるものだ。
読書からはなれた一方で、マッサージにはほぼ週1のペースで通った。癒しが直接的になった。
自分がよくいくのは下北沢の中国人が経営しているマッサージ店。マッサージの最中も店員同士、中国語で意味不明の会話が織りなされている。「なんてひでえ臭さだ」などとほざいているのかもしれない。
そんな忙しさからも解放されて来、ようやく落ち着いて本を読めるようになった。自分を押さえつけていたしがらみめいたものに解き放された。
今はカラマーゾフの兄弟を再読している。新訳ではなくて新潮文庫の旧訳で読んでいる。やはり名作として歴史に耐えてきた文章には味わいがある。ヴィトゲンシュタインが50回も読むだけのことはある。なぜかくも燦々たる魅力を現世まで照射しつつ衰えをしらないのか。それは彼の扱う作品の中に「人間」が凝縮しているからにほかならない。このような内奥をえぐるような作品に一個でも多く触れることは間違いなく人生の愉しみの一つだろう。
とまたまた脱線を繰り返して夜も更ける。