悲しい色やね。

レオ・コッケの『アイス・ウォーター』を聴いて打っている。
サイケデリックにひずんだエレクトリックなスライドギターの音色が雨降りの憂鬱を払ってくれる。
好きな感性をネットのサーフィンでたまたまみつけて、日記などを読むとずいずいと引き込まれて行って、それが異性だったものでそのまま恋心に似た崇高な気持ちに高まったのだけれど、これまたネットサーフィンで顔写真なんかを検索したら見事に期待を裏切られる顔立ちに出くわしたときの衝撃を皆さん経験したことがおありでしょうか。

自分はそれに今宵出くわしてひどく沈鬱なのです。結局見た目なのか?
人は見た目が何割とかいう本があったが、それを上回る圧倒的な感性の力が勝つんではないのかと、これまではそこはかとなく信仰していましたが、もろくも木っ端みじんにそんな神話は粉砕されました。

思えば池田晶子、せわしなく日々を過ごす我々の脳髄に「ほんとう」をむき出しで突きつけてくるあの感性もあの美貌に支えられているのに間違いないのでしょう。川上未映子しかり。手島葵しかり。彼女たちの顔がみな片桐はいりだったらおれはきっと見向きもしないのだろうなという確信犯的真実。それを思うとなんともやりきれない気分になる。これら現代日本に舞い降りたミューズの化身たちもやがて色褪せていく日がくるのだろうか。来るのだろう。それは例えば起こるべき大衆迎合なんかによって簡単に。
だからディレッタントは常に新鮮な感性を求める。そしてその感性は外から見ても美しくなければならない。
嗚呼。