偉大なる無頓着

電車の中吊りを見やると、川上未映子のポーズをきめたドアップが飛び込む。本当に、やめてほしいものだ。帯に現代の樋口一葉とある。そして例によって山田詠美やら池澤夏樹の綿菓子みたいな無内容な言辞が添えられていて、脱力を強くさせてくれる。彼らはかの作品から何をくみとったのだろうか。川上未映子を評価するのであれば、第一作『わたくし率〜』をおいて他にはない。それとて、主題は永井均の哲学から相当強烈な影響を受けた作品ではあるが、未映子の稀有な筆致によって、密やかな感動をもたらす作品に仕上がっている。
小林秀雄が言っていた。小説とは文字通り、小人の説のことで、そんなものは詰まらない、恥ずかしいものと昔は思われていた。それが昨今、小説家はまるでオピニオンリーダーであるとか、感性の代表のように思われている節がある、と。しかし小林は間違っている。なぜなら、おれが見知る限り、小説家をリーダーであったり、最先端と捕らえているのは、文芸メディアと一部の読書家だけだからだ。ただ、小説を読むのも書くのも、誰も恥ずかしがらなくなっているのは確かで、それは我々の生活が小説のように恥ずかしいものになったから、というだけの話なのかもしれない。あるいは恥ずかしいという感受性が鈍磨したということか。

そんな小人の説ではあるが、ある種の人にとって、ある作品が切実な吸引力を持っているのは、その書き手がある切実な求心力を持っているからであって、それ以外ではない。書き手の問題意識やスピリットと懸隔した作品など、未映子風にいうならば「ペラい」だけであって、そんなものは時間のニヒルな費消以外の意味はないのではないか。

しかし、どうしたって受賞後の未映子に距離感を覚えてしまって、本を開く気にもなれない。やはり、それは悲しみを根深く抱えていた精神が、世俗的な承認によって、形式的に、あるいはきっと実質的に幸福を得たことに起因するのだろう。幸福な人の世界と不幸な人の世界は別のものである。世の中に承認された不幸は、承認されたというだけで、全く顕在化して承認されない手付かずの不幸よりも幸福になる。そして世の中には、そんな手付かずの不幸が圧倒的に多い。

開高健が、現代は考えることが出来る人にとっては幸せで、感ずることが出来る人にとっては悲劇だ、と言っていた。そしていつの時代にも感ずることの出来る人はすごく少なく、だから現代は喜劇なのだ、と。感ずることの出来る精神とは、悲しみを知る精神の謂いである。そして悲しみを知る精神は、現代日本で安逸に無頓着に生きてなどいられないのである。偉大なる無頓着。