起こるであろうことが起こる、とはいえ

この二月ばかりは、悲喜こもごものすったもんだで日記どころではなかった。日記が客観視をする行為なのであれば、自己を客観視などしたくなかったのだろう。振り返るには時間の手助けがいることが世の中には確実にある。それが、思いがけなかったり、理不尽であったりすればなおさらだ。

イージス艦との衝突で座礁した漁船「清徳丸」の乗組員の父子2人が未だに行方不明だという。事故現場から140km離れた大荒れの海域を捜索しているという。事故から4日――残された家族の悲しみの深さたるや如何ほどであろう。海に向かって祈りを捧げる親族の姿に想いをはせ、目頭が熱くなる。
世界に生じる出来事は、起こるであろうことが起こり、成るであろうことが成る、と池田晶子は言っていたっけ。おそらくそのとおりに違いない。しかし、それがあまりにも人の心をズタズタに引き裂き、ボロボロに憔悴させるとき、人はどこまでそのように達観できるのだろうか、と考える。悲しむ親族に向かって、「世界は起こるであろうことが起こるんですよ」などと分かったように語るのは品性が問われるだろう。

声高に語られなくていい真実が世の中にはある。それが人の心に隙間風を吹かしているときはなおさらだ。そこに必要なのは、時間の経過であり、隙間風からそっと(それはそっとでなければいけない)守る人の力であり、物語や音楽の力である。
自分の心に、そして愛する人々の心に隙間風が吹きませんように。