自分を見失っていたい

「いつも自分を見失っていたい」と言ったのは辻仁成だったか。気障でナルシズム漂う零句ではあるけれど、自分を見失うっていうのは、しかしたいそうつらいことである。恋煩い・・・まっとうな自己分析ができなくなり、行動が情動的になり、盲目的になるのだけれど、それは本人側ではまっとうなことだと思ってるのだから世話がない。しかし振り返ってみるに「見失い力」というか、ピースの欠けたジグソーパズルのように相手を追い求める心というのは、やはり偉大なことであるよなあ。しかしジグソーがはまらないうちは不安に追われるわ、はまったらはまったで崩れるのを恐れるわ、そしてジグソーはやたらめったら難しかったりするのでどうしようもない。
男が交際を断られたからと言って、相手を刺殺した事件がニュースになっていた。心神喪失でないと仮定して、かような情動も盲目のなせるわざなのだけれど、この種の盲目があさましいのは個我の欲求しか考えていないところだ。要するに自分が相手から承認されなかった。そして自分が承認し、承認されたかった相手が、自分以外の他の男と幸せになる可能性がある。それが許せない。だったら殺してしてしまえばいい、という短絡。想いを寄せた相手の幸せは結局どうでもいいってか。殺人にまで発展するのは極端だけれど、おしなべてたいていの恋愛にはこの要素があるんじゃなかろうか。愛憎という言葉が端的に示してるように、愛が裏切られれば憎しみに変転する。相手の幸せよりも、相手を想う自分のほうが可愛い。ううむ、やるせない。マーク・トウェインの『不思議な少年』が思い起こされる。この愛憎を乗り越えるのは、信仰あるいはそれに似た感情以外ないのではなかろうか。