君は慈愛を

仕事始めである。いつもの群青色の空気にも、心なしのさわやかな風。
年始の挨拶を取り交わし、ボチボチと仕事に取り掛かる。

世界に重い緞帳が垂れこめているように感じられたのはいつ頃からだろうか、ふと感慨が襲う。
埃の積もったレコードプレーヤーに滲んだ倦怠のように纏わりつく、この名状しがたい鈍重さはどうして霧消してくれようか。
今日の夜は、職場の皆で軽く乾杯。終わって、今度は別の仲間と別の場所で新年の乾杯。そこにも流れ出る通奏低音のようなこの不気味な圧をどう抜いてくれようか。

認識の生を生きることによって、などとウィトゲンシュタインのように、今は言えない。
ただ、愛の生を生きることによって・・・これであれば、なぜか首肯できる。
愛によってしか、かような不気味な訪問者を追い払うことはできないと知りつつも、未だ面と対峙せぬままに浮世のよしなしごとにウツツを抜かしているのである。
メディアを跋扈する余計な知識、居酒屋で跋扈する余計な啓蒙、そんなものに辟易しながらも、それらを全的に包容できるような愛の立場、そんなところが理想の境地か。古来の偉大な聖人たちが示唆している境地。日暮れて、道遠しなどというエクスキューズはもはやいらない。