光の自発、存在の過誤

昨日は深更に帰宅し、ベッドに横たわって野本かりあを聴いているうちに眠りに落ちた。電気をつけ放したせいで、ろくでもない夢をたくさん見た。そして、予定のない素の一日をいいことに、ヴォネガットの『猫のゆりかご』を読んでは寝、アルバート・アイラー『スピリチュアルユニティ』を聴いては寝、と断続的な昼寝を繰り返しているうちにまた夜が来た。
アイラーは1回聴いて放り出してから久しく聴いていなかったけれど、今聴くと何かしっくりくるものがあって、特に「ghosts」、美しい出だしから、旋律が崩壊して、流動して、吹き荒れて、拡散と凝縮を繰り返して、やがて収斂されて美しい調和に戻っていく様がえもいわれないですな。何度も、何度も聴いていて厭きがこない。
寝すぎて疲れた頭で、埴谷雄高『闇の中の黒い馬』を読む。すさまじい本。「闇」という非在をこれほどの位相にまで言葉で表した本にはかつて触れたことはなかった。埴谷雄高の正気と大狂気に肉薄することができて、作中に出てくる黒馬が埴谷を暗黒の幅の向こうに連れて行くように、俺自身、埴谷の意識にさらわれそうになる。


暗黒星雲が私の導きの星なのか、果てもない闇へのめりこみたがる本性をもつた私は、確かに、夢幻の操作にせよ、或る種の論理の操作にせよ、如何にかして、そこ、へ行かなければならない。私には青い憧憬に似た一つの固定観念が古くからある。私が<ヴィーナスの帯>とひそかに名づけている或る名状しがたい幅をもつた宇宙の境界をもし越えて、そこ、へはいりこめれば、いわば宇宙の永劫の暗い部屋であるそこから、敢えていつてみれば<過誤の宇宙史>のすべての相貌がこの上もなく鮮明に透し眺められる筈なのである。」


その先に<闇の果て>があるのであり、埴谷はそこに至るときのために用意していた問いがあった。
「暗黒――それは、光の批判者であるのか、それとも、存在の最後の過誤であるのか」
闇はもちろん答えを返さない。不気味なほど反響のない反響を返すだけである。埴谷はそこに至って、光が自発するのを凝視め続けるのだという。
「存在とは何か」この手垢にまみれた哲学命題を、自分なりに突き詰めていくとき、埴谷の思考は優れた伴走者ともなるだろうが、その先に待ち構えているのは果たして狂気かもしれないし、それは今の俺には直観されない。しかし、確かなことは、いま、ここにこうやって、なぜだかしらんけれども、すべてが在る、というそのことである。それが光の自発の結果であるのかどうなのかはわからない。死、が存在の過誤であるかもしれない闇への回帰なのか、それもわからない。このわからなさ、絶対不可解を前にすると、池田晶子なら笑うしかないと言うだろう。俺も笑いたくなる。この存在と闇の不可解の中で、あれやこれやと日々懊悩としている我々の存在を前にして、呵呵大笑するしかないじゃないか。