体質の名は精神

最近、人の体質というものをよく考える。
基本的に人間関係のあれやこれやも、その場その場の行動にしても、生きていくあれやこれやも全部、その人の体質によるところが大きいんじゃなかろうか。
順接に納得しない、とかね。一般論が嫌いで、価値判断が迫られるときに斜に構えるというか、そうじゃないんじゃないのと常に立ち位置をずらしてみる、その体質。
相手の意見を尊重しているようで、実は予定調和なその場限りの追従をして、相手のことなんか全然考えていやしない、その体質。
何でもかでも、涙腺を緩めて、自分を感動の方向に持っていく、その体質。
あえて選択が不幸であることが目に見えているのに、自分を苦しめるために、不幸な選択の余地しかないところまで自分を追い込める、その体質。
なんだかんだで、この体質というのは、ともすれば無意識的に振舞っている我々の行動様式というか意思決定そのものを左右するもので、その決定はときとしてとんでもないレールを前方に敷いたりすることにもなりかねないので気をつけねばなあ。
それは体質ではなくて、心の質じゃあないのかい、と思われるけど、この心身の二元論はどうなのだ。体は心ほどに人間の内面を表していることだってあるわけだし、心は体ほどに人間の外面を表しているのではないのか。
黙々とパソコンにしがみついて毎夜終電までデータを構築している男よ。しょぼしょぼした目、くしゃくしゃの髪、青ざめた顔、神経質な動作・・・それら全ては体の振る舞いであると同時に心の振る舞いであるわけで。逆に、焦燥した発言、しょんぼりした発言、気配りの欠いた言動、それらは心の振る舞いであると同時に体の(憔悴が根底にある)振る舞いであるわけで。
ゴッホはなんでか、短期間にあんなにたくさんの自画像を描き続けたんだろう。なんで自分の耳をちぎって送りつけなければならなかったんだろう。なんであんなに膨大な手紙を書き残したんだろう。考えは尽かねども、本日の気力は尽きる。