日本人は生きていない

日本人は生きていない、そのように外国人は日本人を見ていると養老孟司が『運のつき』の中で語っていて、なるほどなあと思った。今日は朝にモレーニのパスタでぺペロンチーノをつくり、昨日は讃岐うどんを作り、その夜は家系ラーメンを食べ、麺ばかり食っているこの頃なのだが、その後にレニ・リーフェンシュタールの記録映画である『レニ』を途中まで観て、神保町へ。(レニってすごいね。後でまとまった感想を。)
『運のつき』を電車やらで読んでいて、この本は養老さんがいつもの達観した調子で組織のこと、学生運動の頃のこと、人生のこと、科学のことを語っていて、要所要所にちりばめられた言葉が妙に府に落ちるので、買い得な本なのだが、その中の「日本人は生きてない」ってのには、ふうむと神妙にさせられた。日本人は「人」ではなく「人間」なのだと。つまり人と人との間であるところの「世間」を生きているのだと。言い換えれば「人間」という字の前の部分「人」で生きている、個人で生きているということがないという。「個人で生きることが世間で生きることに置き換えられている」ということらしい。たしかにね、日本人は共同体の目を気にする。たとえば今日、帰りによったミスド、黄色い声をした女子高生たちが「○○(男子)とどうなんだよー」とかなんとか辺りの客を気に留めもしないで喚いていたのだが、それも彼女たちの世間(島宇宙)の中では逸脱しないようなゲームが行われているんであるし、地べたにへばってるジベタリアンにしても、彼らはその行為によって自分たちと通行者たちとの世間を切り離してるにすぎないのだ。
だから、外人たちに日本人は個人を生きてない、普遍を生きてないといわれても詮方ないのだけれど、それはそれで別に否定されるべきことでもないのだろう・・などとわかった気になるな、とも本書は説く。こうやって問題意識を丸めてはいけないわけである。日本人は(個人で)生きてないキライはあるけれど、戦前よりは驚くほど変化しているし(ざっくりいうとアメリカに親和しているし)、共同体にしても流動化しているわけで、それにともなって価値観も流動化しているのであって。アメリカに親和っていうと、ジーパンで写真に写っている白洲次郎が思い起こされて、ついでに言うとおれはジーパンばかり穿いている女子がだいぶ苦手で、それにメタメタしたパンプスなどを履いていた日には、もう、ちょっと今日のデートはやめに・・と言いたくなり申します。
しばらく日本人の書いたものばかり読んでいたので、ヴォネガットの『猫のゆりかご』を読み始める。あいも変わらず諧謔が気持ちよいです。「今を去ること妻二人前、タバコ二十五万本前・・・」って。それはこれ読んで村上春樹も小説書きたくなりますよ。