多和田葉子『聖女伝説』と少女幻想

多和田葉子『聖女伝説』を読了する。読了に時間を要したのは、物語の展開が平坦でスリルに乏しいゆえなのだが、「一気に読める小説はつまらない」と語る保坂和志の言を思い出しつつ、ゆっくり品評してみる。一筋縄ではいかない小説である。
作品にはページが振られておらず、章立てもなかったりするが、一定の空白で息継ぎされている箇所で一区切りにして順に1,2・・と章立ててまとめてみるとこのようになる。
1.「わたし」(主人公)、樹を愛でる男たちを見ているうちに口の中に化膿を見出す。わたしはその化膿を飲み込むと、樹液と思われる味がした。鶯谷という男が、陰険にわたしに迫ってくるが、わたしはきっぱり拒絶する。「私はハレと名付けられることになるその子供(聖人)を産む気持ちはありません。」
2.小学生のわたしは、ガキ大将に背中を押されたはずみで口の中の何かが飛び出す。それはコッペパンの形をしていた。鶯谷がそのコッペパンを持ち去ったとわたしは直感する。
コッペパンはキリストの「人はパンのみにて生きるにあらず」から象徴的に引用されている。
3.わたし、肌に「黙」という字の傷を入れる。傷は聖人の背負った十字架のようなものとわたしは言う。「黙」を刻まないと、わたしは聖人のようなセリフを突然つぶやく。中学生のわたし、耳が出るくらいに髪を切る。中学で三つ編みを義務付けられた髪が、亡霊(鶯谷)に引っ張られてしまうのを恐れるため。
4.高校生のわたし、同級生の男「カナー」が、神の網にかかる(つまり神秘体験をする)。わたしはそれをひどく羨む。カナーと親しくなるわたし、そこに鶯谷の介入が行われる。わたしに近づくな、と。
5.カナーに身をゆだねるわたし。わたしは母親の血と肉を持つ者ではないし、将来子に血と肉を与えるものではないのだ、と。しかし、観念を振り払うことができず、カナーを拒絶してしまう。
「聖人を生むのが嫌なんです。わたしはマリア様にはなりたくない。わたしは、自分が聖人になりたんです。」わたしはイザベル(聖書で、イエスを拒否するも、後に窓から突き落とされて死ぬ)に会いたいと思うようになる。そして会う。(イザベルは図書館員の女として登場)
6.イザベルの家に本を借り受けに行く途中、改札口で、舌の根を切り取る新興宗教者に遭遇。そしてその帰りの電車の中で悪魔に遭遇。母親に、イザベルは新興宗教者のリーダーだから、付き合ってはいけないと注意される。
7.私は逃げる。私は顔の輪郭を変えた同一人物に追い掛け回される。私は窓から飛び降りる。棺桶に美しい死に顔で収まる私の顔が見える。鶯谷の哂い顔も見える。棺桶の中の私はくしゃみを一発。鼻がかゆけりゃくしゃみを一発。実に滑稽ではないか。「滑稽であることのほうがきれいであることより強いんだ」私は美しい死体にはなりたくない。トロンボーンのソの音が鳴る。私は地面に衝突する手前で宙に浮く。



と、書いていて筋を失いかけるが読み解いてみる。1〜4は、キリスト教の世界観というか、聖者は男にしかなれない、そしてその聖者を生む者として想像妊娠するわたし、そしてそれを拒絶するわたしという構図。5は(カナーとの)聖者、血肉を超えた関係性の示唆。6は、結局キリスト的世界内に引き戻されるわたし(女)の自分探し。7にいたって、わたしは、鶯谷キリスト教世界、もとい現世の男性的象徴)から逃げ、窓から飛び降りる。そしてそれは自殺ではなく、「外へ出た」だけなのだ。
少女幻想の解体、などというと大げさであるが、それがこの作品の通奏低音だとおれは思う。だからこの作品は男(の自意識を抱える者)には、なかなか理解しがたい。少女幻想をマッチョイズムや男性的ヒロイズムに置き換えると、ジェンダーとして背負わされるものとして理解しやすくなる。社会に浸透した大きな物語の解体が、それを必要としているマイノリティの肩の荷を降ろす。それは文学や漫画の役割だったり、劇映画の役割だったりするのだろう。安易なガス抜きは、制度的・慣習的な欠陥や抑圧を放置、看過されたりすることにもつながる可能性があるけれど、制度の改革によって救済されるのはえてして世の中に公表され、明るみに出たメジャーな問題である。回収されない物語は、芸術が穴埋めする。
小説の結構としては、1.の中に、想像妊娠の気があるわたしがガラスケースに入れられるシーンがあって、それは鶯谷によって破砕されるわけだけれど、この小説全体が無機的なガラスケースに入っている印象があって、しかしそのケースを破砕すると中から熱い血がドクドクと溢れ出して来る、そういうふうである。その静謐の中の荒ぶる魂は、川上未映子の『わたくし率イン歯ーまたは世界』に通抵する。
ちなみに、トロンボーンのソの音が鳴る、という最後のリフレイン、これはキリスト音楽のレクイエム(モーツァルトが有名)で、最後の審判の際にトロンボーンが吹かれることから来ているのだろう。