思う、ゆえに、思いあり

永井均西田幾多郎』を読む。数多くの洞察に満ちている本。本当にこういう本を読んでいると、川上未映子の『わたくし率 イン 歯ー、または世界』の中のセリフじゃないけど、あんたらは何が何をするんが人生やって思ってんねん、と思ってしまう。
 おれは永井さんのような精緻に論理を追ってゆくこことができず、すぐ感情的なあれこれに走ってしまうのだけれど、彼のこの作中の論考はストンと腑に落ちてくる。
 永井が西田幾多郎の哲学について、デカルトの言をもじって「思う、ゆえに、思いあり」と表したのは名言よ。「われ思うゆえに我あり」というのは英語やらラテン語やらが強いる用法によって帰結された一つのアイロニーみたいなものだと。思うところ、思いが起こる場所、すなわちそれが我なのだと。思いはある、取り立てて言うなら、思うことによって、とでもいうか。取り立てて言わなければ私は存在しない(無私)し、私は存在しないことによって存在する、ともいえるのだろう。ああ、この感覚は絶妙。こうやって絶妙の感覚が起こっているのも、私がそれを起こしているんじゃない、それは取り立てていうなら、私に於いて、その感覚が起こっているからである。
 そして少しばかり読んだものの、3年くらい本棚の隅に佇んで異様なオーラを放っていた埴谷雄高の『死霊』のページを開く。そして、序文からしてずっと抵抗のあった文体がむしろ新鮮に感じられたのにうれしくなりつつも、線を引き引き読み始める。
 『大審問官』の作者(=ドストエフスキー)に睨まれた埴谷の未完の大作、心して読むべし。