わたくし率イン歯ー、または世界

川上未映子の佳作『わたくし率イン歯ー、または世界』を読んで、今は遡ること7年前・・ええ?もうそんなに経過したのか、トラルファマドール星に連れ去られたビリーのような時間の波の中に放り込まれた気分になっている夜下がりなわけであるが、その7年前、永井均の本を読みまくっていたあの頃に帰った気分になった。いや、実際にはそんな気分がこみ上げたのは一瞬なんだけれど、あの世界がボキンと折れてぺしゃんこになってしまうような衝撃の感覚が、かすかに思い起こされた。魂の底辺に眠ってた疼きみたいなものが触発されたとでもいうか。永井の『<私>のメタフィジックス』を読んだ時の衝撃。これが本物の哲学者なんだ、これがホンマモンの狂気を生きている人なんだ、っていうあの拭い去りがたい違和と親和の感覚。
『わたくし率イン歯ー、または世界』の主題はまさに永井が開陳する<私>の哲学が根本にすえられてると思っているのだけれど、それをこんな恋愛という形式で料理してみせた未映子は本当にすごい。もうたぶんこんなこと言ったって理解できる人なんてあまりいないのかもしれないけど、そもそもこのなんでかかんでかこの<私>という存在自体の奇跡、って言表するのもまた面映くもあるこの永遠に言葉ではとらまえられない一つの謎を、恋愛小説に昇華してみせた未映子はもう文句なく私的芥川賞もんなのである。もう小説がおもしろかったついでにアルバムも買ってしまって聴き入っている次第なわけで。『夢見る機械』って諸星大二郎からインスピレーションされてるのだろうか。本当におもしろい女が出てきたなと思って、それはすごく自分の中でうれしいことで、それがどれだけうれしいかと言えば、敬愛する池田晶子が故人となったいま、哲学の巫女の存在を代替するようなかたちで、心理学的にはなんと言うのかわからないのだけれど、ああ、まだこの世界はちょっとは面白く生きるに値するなあなどと思わせてくれる女なのだった。
そんなわけで未映子に触発されたので、『わたくし率イン歯ー、または世界』でも出て来た川端康成『雪国』冒頭の非人称的な書きぶりから衝動にかられて永井『西田幾多郎』を購入してしまったよ。思うつぼだし、実にそれでいいのだ。