ファニーゲーム

憂鬱な出来事が重なった一日の締めくくりとして、今日はミヒャエルハネケの『ファニー・ゲーム』を観た。この作品を久しぶりに観て、無論反吐を吐きたくなるシーンがてんこもりで、実に不愉快にはさせられるのだけれど、ハネケはもう現代の映画監督の中では比類なき存在になっているのだなというのが正直な観想になってしまう。もう村上春樹の小説がかわゆく思えてしまうほど、理不尽さ、不条理さに関して徹底している。そして、その不条理をスクリーンのこちら側にいる観客(おれ)は、実に安全な場所から、スクリーンの中身はフィクションなんだということをいつでも確認できるような状況で(リモコンをわきにはべらせ)、酒でも一杯引っ掛けながら観ているわけであって、ハネケは旧作『ベニーズビデオ』(主人公はファニーゲームと同じ)で、「我々は極めて安全な立場から映像を虚構として眺めている。しかし、それを現実の世界でも同じように適用すると、不都合が生じてくる」みたいなことを語っていたけれど、この『ファニーゲーム』はその意味で、さらにその洞察を純化したものなのではなかろうか。虚構は現実と同じくらいに現実だ、と不敵に笑いながら作品は終わるわけなのだけれど、笑えないな。まさに我々の世界そのものが、例えば第三世界の困窮を憐れみつつ、ブランド品などの消費に余念がなかったり、かと思えばヒューマニズムを謳い上げつつ、家庭内暴力は後を絶たなかったりと、虚構があふれかえっているわけであって。
ああ、なぜこんなに不愉快な映画であるにもかかわらず、何かが救われた気分になるのだろうか。やはりハネケは天才なのだなあ。