モーツァルトとクジラ

今日は朝にテレビが運び込まれて、それを押し込めたあと、こまかい設定をして映してみたらば、非常に美しく明瞭に映ったことには驚きだった。もはやアナログなどでは見れないな、などと思ったりもするのだけれど、よく考えればハイビジョンでなくても、大型でなくても、いま床の上で哀しくたたずんでいる14型のちっこい液晶のアナログ画面だって別にそれしかないというのだったら、それで満足していたのだよなあきっと、と思われるのだった。
人間はなんでかかんでか、便利を追求する。それはそれは人間の発生以来、そもそも言語、そもそも道具、それらはすべて便利というものから発生してきたものなんだろう。寒いから火を炊く、細かく切りたいから石を磨く、合意を形成したいから言語を使う、もうこれらすべてがそうなのである。それが人間の原初的な欲求からくるからなのか、あるいは欲動として生み出されたものなのかは文化人類学者などに任せるとして、いずれにしてもそれがあることで便利というのには違いがない。
しかしこの便利、もともとはその前提に必要性というものがあった。しかるにハイビジョン大型テレビ、どうなのだろう。ケータイの写メール、どうなのだろう。ブログ、どうなのだろう。などと考えていくと今こうしてタカタカと打ち込んでいる行為そのものを否定しかねないのだが、どうなのだろう。必要性というのが度外視されて、ただの資本主義の維持、経済成長の維持の一環として企業がどんどこどんどこ新商品を開発しまくって、消費者はそれらの情報を頭に詰め込んで売り場にいく。
商品が生み出されることによって、必要性が生み出される構造になっていないか。いや、必要ではないのだけれども、みんながひとしなみに持っているということで必要に迫られていくのである。別に企業だって開発したいなんて思わなくてもいやがおうでも横並び、追いつけ追い越せで必要性なんか無視して商品が生み出されていっているのではないだろうか。
まあ、それにつきあういわれはないのだけれど、いい商品が出たらほしい、というのは人間のサガですよ。なにがいいたいのか。サガだけれど、いまおれらはそういう便利の逆転現象の世界に生きているってことに自覚的ではありたいな、ということ。
今日は、昼に吉祥寺SOMETIMEで佐藤達哉氏のバンドを聴いた。ほんとはアンディーウルフって人が演る予定で、そのつもりで入ったらいきなり佐藤氏のバンドで、でも結局自分好みの編成である上にパワフルな演奏を聴かしてもらい満足。パットメセニーの『ジェームス』はよかった。ジェームス・ボンドじゃなくてテイラーに捧げてるやつなんだね。
そして『モーツァルトとクジラ』を鑑賞。
アスペルガー症候群などの自閉症に悩まされる主人公とヒロインが織り成すラブストーリー。病気自体について特に言及したいことはないのだけれど、主人公とヒロインが衝突するシーンが結構あって、ああ、おれはこうやって感情、むき出しにして衝突してること全くないなと思った。彼らは自閉症なのだけれど、作品中に描かれる感情はとても豊かで、ひょっとしたらおれなどのほうがよほど自閉症的なのではないだろうか(対人関係において感情をしばしば押し込めるという意味で)、などと思ったりもする。
しっかし、やはり大画面でみるのは臨場感が全然ちがいますぜ。。