小室事件にほのみえるもの

深沢七郎楢山節考』を読み終える。郷愁にあふれる牧歌的な文体と裏腹に、内容は「姥捨て山」に捨てられる、いや、正確には捨てられに行く女とその息子の物語である。
淡々と読み進め、淡々と読み終えて、獏たる感慨を抱いたが、なんともとらえどころのない作品だった。
70歳になる「おりん」は、食料不足で冬も越せないような奥山の村落で、どんどん増えて行く家族を脇目に、自ら「聖なる山」とされるところの姥捨て山に捨てられることを願う。
それこそ淡々と、しかし決然と。
深沢にとってこれはデビュー作(1956年)である。
淡々と読み進めたものであったけど、「あとがき」で正宗白鳥がこの作品を「今年のうちの記憶すべき一事件」とかたり、「人生永遠の書」と評しているくだりを読んで、またしみじみと感慨を深めることになった。しかし正宗さんならさもありなんと思った。正宗さんが『たった一つの秘密』で書いている「墓場まで持って行くべき毒気を持った秘密」というのは、思うにこのようなものではなかろうか。お題目的なヒューマニズムを超えた峻厳たる「人間の生のありのまま」がそこには突き出されていて、それはあまりにも厳格であるゆえに、その間隙を縫うようにこもれ出る人間愛としか言いようのないものに静かに心打たれるような気がした。例えば捨てられる老婆「おりん」は息子の肩にかつがれて山に向かうときも全く息子を恨む気持ちはなかったに相違ないのだ。いつまでも五体満足なことを恥として、臼にわざと歯をたたきつけて折る描写などは圧倒的だ。愛とはかくも厳格なものなのだ。そんなことを愛などと一言も使わずに書ききってしまう筆力に恐れ入る。
小室哲哉が逮捕されて、やおら有象無象もひっくるめてマスメディアがたたきまくったり、コメントが溢れ出してはお祭り騒ぎである。
しかし「世の中には、言うべきことと言わなくてもいいことがあるということを、これらの人は忘れるようである。それで、引き換えに、誰かれ構わず言われたくないことを言われる不快を味わう次第となる。」(池田晶子『考える日々穸』)
彼の楽曲のいくつかはそらで案じられるくらい一般に浸透している。さんざんそれを聴いているし、それで生活を潤わしていたわけだ。
彼を熱心に叩いている(事件に直接も間接も関係ない)人たちは一体何を叩いて、何に怒っているのかどこまで己のうちに得心しているのだろうか。ただ言わなくてもよいようなことを、退屈紛らわしに言ってるだけなのではないか。
そんな中、小室の妻が毅然と離婚しないと言う当たりに楢山節考に通抵する峻厳な愛を感じたりするのは、年をとったせいなのかね。