日記をしばらく開けていた。日記を書き連ねる必然性に欠いていたし、日々あまりにもせわしないあれこれをインプットしては吐き出していたのであえて日記という形をとらなくても事足りたともいえる。この間、スマトラ沖(バンダアチェ)にまた行ってきたり、恋愛的ごたごたに身をやつしたり、ドストエフスキーを片っ端から読んで行ったり、絵本を制作したりしていた。
バンダアチェはすっかり復興していた。家々が立ち並び、道路が整備され、下水や上水のインフラが整えられ、テレビ・ラジオ局が情報を発信し、目をみはるばかりである。これに比べたら2年前に行ったバングラデシュなんて道路も信号もろくに整備されていないのだから、なにやら考えさせられる。
日本に帰り、あいかわらずの太平ボケにひたる。我々の時代の文学に緊張感が欠けているように、我々の生活にも緊張感が欠けている。年金問題、医療問題、公債残高533兆円、ワーキングプアー、格差社会も何のそのである。誰も本気で心配していない。毎日毎日朝もはよから、金儲けに余念のない司会者やコメンテーターやらが、しかつめらしい顔をして重大事からよしなしごとまで、語り尽くしている。自局の偽装やヤラセには寛容のくせして、他者の偽装には徹底糾弾するのが彼らの仕儀である。
それにしたってこの閉塞感というのはすごいことだ。みんな健気にも窒息しないで生きている。我々が意識的・無意識的に突き進んだ際限のない大衆化、差異化、相対化。その果てに、手に入れたもの、それは虚無だったのか。