静謐な始まり

クリスマスから年末年始にかけて、しとしとと過ぎた。みずから望んで静謐さを求めたのだから、結構なことである。クリスマスは同僚たるMさんとしめやかに飲み、年末には彼女の勧めに従って遠藤周作『深い河』を読む。遠藤周作の本をまともに読んだのは初めてなのだけれど、なるほど彼の著作が多くの人に読みつがれている理由がわかった気がした。

読了後の清涼な気分のままにトルストイ『人生論』を読む。『光あるうち光の中を歩め』以来、トルストイは2作目。そこに顕されているものは遠藤周作の作と通抵するものがあった。それは一言でいえば「愛」であり、個体としての生命、個体としての幸福を超えたところにある、無償の愛なのであった。
宗教は阿片であるというマルクスの言や、ニーチェキリスト教道徳批判、キリスト教の名の元に流された血の歴史については知悉しているけれど、その教え説かれるところの愛に惹かれていくのはどうしてなのだろうか。死の恐怖から開放され、依るべき絶対的な力によって己の浮薄にして脆弱な精神に揺らぐことのない指針を打ち立てたいがためなのだろうか。Mさんはキリスト教の学校を卒業し、聖書も通読し、遠藤周作を愛読しているけれども、信仰については理解できないという。おれはキリスト教的な神についてこれまで信仰せず、むしろそれはニーチェの語るとおり、根本的にルサンチマンに基づいた世界の価値転覆を図る手段という説に同意していたくらいだった。それでもなお、人々の真摯な信仰の姿に、無償の愛というものに惹かれるのはどうしてなのだろうか。格差社会の生存競争や、退屈しのぎの域を出ない芸術や思想に鼻白む思いがするのはなぜだろうか。

年末は郷里に帰り、家族で正月を迎える。1年が立ち、また同じ顔で正月を迎えられることに静かに感謝する(遠国にいる妹は新しい場所で、新しい人たちと、新しい年を迎えていることだろう)。故人となった池田晶子さんのエッセイが想い起こされる。以下抜粋。


(現代が正月にしてもハレとケのメリハリがなくなったという文脈で)
なぜかつての我々にとって、お正月はおめでたく面白いものだったのかを思い出してみたい。おそらくそこには、季節の祭りを祝ぐ気持と同じか、またはそのことの裏返しとして、自分の一回性に対する強い自覚があった。(中略)たとえば去年のお正月、おめでとうございますと挨拶をしたその食卓に、今年、父の顔はない。去年いた人が、今年はいないのである。あるいは逆に、去年はいなかった顔が、今年は加わっていることもある。入れ替わり、立ち替わり、生まれては、死んでいる。繰り返している。その繰り返しの中に、この私もいる。来年はこの私がいないのかもしれない。何が存在していたのだろうか。永遠的循環の中の、一回的人生。いま生きているということ自体が、奇跡的なことである。ああ今年も無事に皆の顔を見ることができた、奇跡的なこと、おめでたいことだ!(『人間自身』お正月の復権


また来年、同じ顔で会えますように。よい年でありますように。