安倍さん、やめる

昨日、安倍さんが辞任を表明した。職場のテレビがずっとつけ放しにされていた。職場では最近、国会から依頼を受けた報告書を提出したばかりで、その審議も覚束ないようであるし、マスコミから報告書のからみでかかってくるはずの電話も、さすがに少なかった。
報道を見たり、新聞を読んだりすると、「なぜこのタイミングで辞めるのか」とか「責任放棄」とか「投げ出した」とか「理解に苦しむ」といった言葉が溢れかえっていた。
だが、そのように世論の波に乗る輩たちが、ほんとうに理解に苦しんでいるかといえば、そうではない。それは全くない。彼らは頭の別の筋道では十分に理解しているはずである。参院選での民主党の躍進やら、仲良し倶楽部と言われた内閣での大臣クラスのたて続く不祥事やら、支持率や求心力の低下、つい最近の3カ国への外遊の疲労といった、諸々の要素が重なり合って、安倍さんは重度の鬱に襲われてしまったわけだ。もともと胃が弱いというし、表情をみていれば、なんだか最近はいよいよ飼い主に捨てられた犬のような瞳になっていていた。
だから辞任が理解に苦しむ、というのは実に建前的な、ゆえに日本人的な言い回しだなあと思われた。麻生大臣にしても、直後の記者の質問に総裁選に出馬するかと聞かれ、そんな質問は聞くのも早すぎるし答えるのも早すぎるみたいなことを言って、その舌の根も乾かぬうちに出馬表明ですか。いいよ、建前は。だいたい今までの麻生氏の立候補もこういうときのための伏線みたいなものであるわけで。
人が変わって何が変わるのか。気分である。小泉首相が何を改革したのか。気分である。改革、改革といって、達成した公約は靖国神社への8月15日参拝と郵政民営化くらい。しかも郵政民営化で何が変わるのか、国民の関心はなきも同然。経済成長率が6年連続で上昇とかいうのに至っては、別に小泉氏の成果でもなんでもないわけで。実質的にマイナスになったことなどないわけですから日本の経済成長率は。
そして、世論という気分はだれが作るのかといえば、マスコミと国民、それに追従した政治家たちが、言葉のてんぷらをセンセーショナリズムという衣でくるんで、メディアというてんぷら鍋で揚げて作るわけだ。西部邁のように言うならば。しかし西部邁が言わんとするところは全くもって正論であるし、こういうときこそ、真性の知識人の声に耳を傾けたいところだよなあ、と日夜の業務で疲れた頭で考える。