泡沫の日々

週末はよく眠った。眠って、何かしら象徴的な夢を見て、好きな人が出てきたり、蛇のようなものにまとわりつかれたり、追い掛け回されたり、よくわからない内容だった。埴谷雄高を読んで、その重力に耐えられなくなってまた眠り、永井均を読んで、その洞察に考え込んでまた眠り、を繰り返した。
金曜日から土曜にかけて、そうやって眠っては本を読んでまた眠っては、というふうに過ごすのが一番幸福だったりする。ビデオゲームや小説や、映画よりも、やはり夢が一番肉薄してくる。なんなのだろう。夢は無意識が顕在化してくることで起こる、なんていうのは精神分析の謂いなのだろうが、そんな賢しらな現代科学はどうでもよくて、実際的に発生するこの一回性の夢のなんと奇跡的なことよ。永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』ではそういえば、この現実世界というものがそもそも、地球外の培養器の中に入った脳が考えているのではないとどうしていえるのか、という問い立てをしていた。夢の感覚はまさにそれに近いよね。この現実世界がいつか醒める日がくるまで、人は際限の無い泡沫の日々をある者は真摯に、懊悩しながら、ある者は愚鈍に、堕落しながら生きていくのだよなあ。
もろもろの本たちと平行して、多和田葉子の『聖女伝説』を読み始める。知太りした福田和也は『作家の値打ち』で多和田を評価していなかったが、川上未映子が多くの洞察を彼女から受けているのだからきっと面白いのだろうなあ。